「米兵から辱めを受ける」。うわさが広がり、山に数日隠れた。男の服を着て変装もした。でも丸刈りにするのだけは最後まで抵抗した【証言 語り継ぐ戦争】

 2023/07/11 20:55
「戦争は2度としてはならない」と語る別技ミチ子さん=日置市吹上町永吉
「戦争は2度としてはならない」と語る別技ミチ子さん=日置市吹上町永吉
■別技ミチ子さん(93)鹿児島県日置市吹上町永吉

 東長島村(長島町)生まれ。教師だった父の転勤に伴い川内町(薩摩川内市)、鹿児島市と移り、制服に憧れて入学した鹿児島市立高等女学校に原良から通った。今の鹿児島玉龍高校で、当時は現在の天保山中学校の場所にあった。県内への空襲が激しくなった1945年3月に伊集院町(日置市)に疎開、列車で通学した。

 鹿児島市は45年3~8月、空襲に8回遭った。ある日校庭で友達と話をしていると、突然、1機の米軍機が現れ「バリバリバリッ」という音と共に機銃掃射が始まった。操縦席の米兵の顔が見えるくらいの低空飛行。何度も旋回して私たちを狙った。必死に転がり込んだ防空壕(ごう)で「今日までの命だった」と友達と抱き合って泣いた。

 夕方になって、伊集院から通う別の友達と西鹿児島駅(西駅、現在の鹿児島中央駅)に向かった。しかし駅員に「列車は出ない」と言われ、友人と歩いて帰ることに。ところが饅頭石(まんじゅういし)駅(現在の上伊集院駅)の辺りで列車に追い越され、「西駅で待てばよかった」と後悔した。

 物音におびえ隠れたりしながら、伊集院駅近くの友人の家に着いたのは夜11時ごろ。疲れ果てて3時間ほど動けなかった。しかし「親が心配する」と促され、さらに30分ほど歩いて帰った。

 7月27日のことで、後から聞くと上町空襲の日。当時父は県庁の教育委員会に勤務していた。城山の防空壕に避難後、私たちを追い越した列車で帰宅。母に「ミチ子はいなかった。空襲でやられたかも」と告げていた。寝ずに待っていた母は、帰ってきた私を泣きながら抱きしめてくれた。

 その3カ月半前の4月8日には、同級生4人が爆撃で犠牲になった。日曜日の豚の飼育当番で学校におり、輪番制で2週間後は私の番だった。犠牲者の1人は伊集院の学生。遺体はトラックに乗せられ、毛布を掛けただけの格好で運ばれてきたのを覚えている。天保山中の校庭の隅に1991年に建てられた女学校校跡碑に、4人の氏名が記されている。

 8人きょうだいの4番目。母は体が弱く、弟と3人の妹の面倒を見た。着物とサツマイモを交換してもらうために伯父と農家を回った。ひもじさとの戦いだった。戦後は「若い娘は米兵から辱めを受ける」とうわさが広がり、山に小屋を作って数日隠れたこともあった。男の服を着て変装したが、頭を丸めるのだけは最後まで抵抗した。

 長兄は伊敷の歩兵第45連隊におり、終戦前に熊本の予備士官学校に行った。熊本に行く前日、帰宅した兄が、上等兵から何度も殴られたとこぼしていた。「お前は帰って来たら俺の上官になる。気に入らない」というのが理由。ひどい話だ。

 吹上に嫁いで65年。3人の子や孫に恵まれた平和な時を過ごした。ただ私の青春時代に戦争があり、恐ろしかったという記憶は残っている。今もウクライナの映像を見たり、消防車のサイレンの音が聞こえたりすると心が沈む。戦争は二度としてはならない。こんな思いを子や孫にさせたくない。

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