この記事は雑誌ナショナル ジオグラフィック日本版2022年10月号に掲載された特集です。定期購読者の方のみすべてお読みいただけます。
国土を一周する環状道路に沿って走るとタリバン復権で昔に逆戻りする国の実情が見えてきた。
アフガニスタンの首都カブールは朝の渋滞でごった返していた。
ようやく街を抜け、スマートフォンの地図でカンダハルまでの経路を調べると、国道1号線で500キロ、9時間と表示された。国道1号線は国土を一周する全長約2200キロの環状道路で、この国で最も多くの資金が投入された重要な道路だ。カブールと第2の都市カンダハルとの間の移動を高速化し、商業を促進するため、米国は整備に数百億円もの予算を費やした。
国道1号線の建設は1950年代に始まり、冷戦中のソ連と米国がカブールへの影響力を強めようと、競って資金を出した。その後、戦争と整備不足で道路は荒廃し、2001年には舗装部分がわずか50キロほどになっていた。カブールからカンダハルまでの区間が修復されて03年に再開通したとき、米国の特命全権大使だったザルメイ・カリルザドはこう宣言した。「我々は今、文字通りアフガニスタンの未来に続く道に立っています……それは繁栄の未来、平和の未来です」。それから19年たった今、この荒れ果てた道路は、繁栄と平和の代わりに暴力と腐敗の未来が来たことを物語っている。
カブールから南に走り始めて1時間弱。ワルダク州に入ると、路面の損傷が目立ち始め、イスラム主義組織タリバンの爆破による穴があちこちに開いていた。事故を回避するには、道から外れたり、たびたび急ブレーキを踏んだりしなければならない。ブルカ姿の未亡人が施しを求めてくることもあるし、シャベルを持った少年が見えたら、そこは爆弾による損傷が特に激しい場所で、速度を落とせというサインだ。
補修をする作業員がいないので、子どもたちが割れ目や穴を埋めている。15歳のエーサヌラや彼の10歳の弟ラフィウラもそうだ。夜明けから日暮れまで働いて、1日にせいぜい270円ほどしかチップを稼げない。「父さんは病気、兄さんは薬物依存症。僕らはほかに何ができる?」と、エーサヌラはため息をついた。
ここはタリバンの勢力圏だが、前回の取材ほどの緊張感はなかった。イスラム教スンニ派の武装集団が結成したタリバンは、1996年に権力を掌握するも、2001年の同時多発テロの後、ウサマ・ビン・ラディンをかくまっているという理由で、米軍に制圧されていた。だが、20年8月に私がこの道路を走っていると、タリバンの戦闘員が政府軍の車列を襲い、どこからともなく銃撃戦が始まった。銃弾の飛び交う前哨基地で装備不足の政府軍が抵抗するなか、住民たちが危険を冒しながら移動していた。
そのとき私が一夜を過ごした警察の派出所は、がれきの山になっていた。1979〜89年のソ連侵攻時に破壊された巨大な戦車の残骸と、もっと新しい時代の大破した米軍の輸送車両が同時に目に入ってくる。
米国が20年間の駐留を終え、タリバンが再び政権を奪ってから1年が過ぎた。写真家のバラーズ・ガルディと私は車を借りて、国内の4つの主要都市を結ぶ環状道路、国道1号線を走ることにした。20年にわたってアフガニスタンを取材してきたが、以前ならあまりにも危険で、実行不可能な計画だった。暴力が一時的にでも収まっている今は、貴重なチャンスなのだ。