「無感動」と不評だった
吉田茂元首相の国葬

安倍晋三元首相の国葬が「9月27日に武道館で開催」で最終調整されているという報道があった。明日7月22日に閣議決定される見通しだという。

この件に関しては、「8年8カ月の長期政権で、外交でも日本の存在感を示してくれたのだから当然だ」という意見も多いが、個人的には国葬はやめた方がいいのではないかと思っている。

と言っても、野党などが主張している「国家が安倍氏の政治を礼賛することになってしまう」という政治的な理由からではない。

政府が主導して国葬をゴリ押ししたところで、安倍元首相の人柄とリンクしない「無機質で残念なお別れ会」にしかならないからだ。

「まだやってもいないうちから、なんでそんなことが言えるのだ!」と不快になられる国葬支持者の方もいらっしゃるだろうが、筆者がこのように感じるのは「歴史の教訓」だ。

戦後の首相として唯一の例である、吉田茂元首相の国葬は実は当時、「無感動な官葬」などと大不評だったからだ。

盛り上げたわりに、
無機質…不評に終わった

1967年10月31日に実施された吉田氏の国葬も、今回と同じで政府が閣議決定で決定した。日本には国葬を定める法律がないので国会で議決されることもなく、野党の反対を押し切って政府が実施を決めて、どのような形で執り行うか考えた。

もちろん、戦後復興を進めた吉田氏の功績は多くの国民が認めるところであって、抗議デモもあったが、ほとんどの国民は吉田氏の国葬をすんなりと受け入れた。そのあたりは今のムードとまったく変わらない。

テレビの大騒ぎも今と同じだ。国葬当日は「宰相吉田茂」(NHK)、「人間吉田茂」(フジテレビ)など朝から晩まで全チャンネルで追悼番組を放送。神奈川県大磯の自宅から武道館へと遺骨が運ばれるまでは、民放全局共同で中継をした。

ワイドショーのコメンテーターも「国葬は当然だ。国葬になれないドブネズミどもがガヤガヤ言っているのだ」(読売新聞1967年11月2日)と言って、戦後初の「国葬」を大いに盛り上げた。

しかし、そんな世間の盛り上がりと対照的に、会場の武道館はかなりビミョーな空気が流れていた、と読売新聞(1967年11月3日)が報じている。

「弔辞はことごとく型通りのものだった。喜楽を分けたはずの親しい人の弔辞も制限された。参列者も、各省ごとに、機械的に割り当てられ、人選された」(同上)

そんな単調さに拍車をかけたのが、場内で延々と繰り返された、自衛隊音楽隊による「永遠に眠れ」「悲しみの譜」。そして、一般献花者が祭壇を前に吉田氏への思いをかみ締めていると容赦なくかけられる「直ちに退場してください」という場内アナウンスだった。こんな儀礼的なムードが5時間続いた「戦後初の国葬」を同紙は以下のように総括している。

「“国葬”というより、無感動な“官葬”という気がしてならなかった」(同上)

なぜこんなことになってしまったのか。当時の政府の人間がことごとく「無能」ぞろいだったから…などではなく、これが戦後日本における国葬の限界なのだ。

国葬では宗教色を
出してはならない

国葬が儀礼的で無感動なセレモニーになってしまうひとつの大きな理由に、「宗教色の完全排除」というものがある。

ご存じの方も多いと思うが、吉田氏は敬虔なカトリック信者で、ヨゼフという洗礼名もある。なので、亡くなった時も家族や近親者たちはカトリックの教会で葬儀をした。

しかし、日本政府が実施する国葬で宗教色は出せない。故人がどんなに信仰をしていても宗教的な説教はできないし、弔辞などでその手の話題も避けなくてはいけない。しかも、これをさらにややこしくしているのは、他の宗教団体への配慮もしなくてはいけないところだ。

<故吉田氏の国葬がきまったとの報道が流れると、さっそく自民党本部や幹部のところへ、仏教や神道の団体から「国葬はぜひ自分たちのところへ」との陳情が始まった。「決して商売ではなく、遺徳をしのんでのマジメな申し出なのです」と記者会見で瀬戸山副幹事長がこの話を紹介した>(読売新聞1967年10月22日)

もちろん、政府としては国葬をどこかの宗教に丸投げするわけにはいかないので、「国葬は宗教や形式にとらわれない」とお引き取りを願った。これはつまり、祭壇ひとつとっても、弔辞ひとつとっても、「どこかの宗教を連想させてはいけない」という細心の注意が必要になるということだ。

そんな神経質にならなくてもと思うかもしれないが、国葬というのは国家が「喪主」ということなので基本的には、あくまで公平公正で、全国民に納得してもらえるようなセレモニーにしなくてはいけないのだ。

税金の無駄づかいもできないし、特定の宗教への肩入れもできない。弔辞などで誰かを優遇すれば、癒着だなんだと叩かれてしまう。そういうさまざまなリスクを官僚たちが一つ一つ潰していくと最終的に後に残ったのが、無宗教・無哲学・無感動を追求した「官葬」だったというわけだ。

当時の永田町・霞が関の人々は、吉田氏の国葬のビミョなー空気で「もはや国葬なんて時代ではない」と思い知った。だから、それ以降、首相の国葬は「封印」された。

「国葬にふさわしい人がいなかった」からではなく、国葬をやっても国も自民党もそんなに得はないし、本人も遺族も望まなくなったのだ。

ノーベル賞もとった
佐藤栄作元首相は「国葬」ではない

吉田氏の国葬から8年後、安倍氏の大叔父である佐藤栄作元首相も亡くなっているが、この時は政府、自民党、国民有志の三者による「国民葬」をとった。

佐藤元首相は、安倍氏に破られるまで首相在任期間7年8カ月という長期政権を誇り、大勲位をもらって、さらには日本初のノーベル平和賞受賞者だ。

そんな憲政史上でも突出した実績のある元首相が、なぜ吉田氏に続けて国葬にならなかったのかというのは、何を言わんやであろう。

このように国葬というのは「名誉感」はすごいのだが、国家喪主という重い足枷をつけられるので、セレモニーの内容的には罰ゲームのようにひどいありさまになってしまうという問題があるのだ。

そういう現実を知ってか知らずか、岸田政権は安倍元首相の国葬をゴリ押ししている。これは一部の政治評論家も指摘しているが、「党内の保守勢力の取り込み」ということもあるのだろう。

言っていることが立憲民主とそれほど変わらないリベラル勢力・宏池会を率いる岸田首相からすれば、これまで安倍氏が抑えてくれていた党内の保守グループに対して、自力で良好な関係を構築しなければいけない。

となると、まずはその手の人々が望む「安倍元首相を国葬に」を実現して、「私はこう見えて案外タカ派なところもあるんですよ」とアピールして、信頼を勝ち得ていくしかない。言い方は悪いが、安倍氏の国葬を自身の政治力アップに利用しているようにも見える。

安倍元首相にふさわしい
「お見送り」とは

吉田氏の国葬を批判した読売新聞はこう問いかけている。

<しゃ脱だった故人を送るためには、無感動な“官葬”を営むより、自然な形式に束縛されぬ“民葬”の方がふさわしかったのではないか>

英国風のスーツに身を包み、ハットをかぶって葉巻を愛した吉田元首相は、「バカヤロー解散」で知られるように頑固で毒舌家だった一方、ユーモアのある魅力的な人物という評価もある。そんな人間味あふれる吉田氏のキャラクターを考えると、この指摘はまったく同感だ。これはそのまま安倍氏にも当てはまるのではないか。

政権維持のために堅苦しい国葬などをやるよりも、自民党や支持者も共同で執り行う「国民葬」でにぎやかに送った方が、政治家としての評価はさておき、多くの人に愛された安倍元首相らしい。民間主導のセレモニーならば、日本会議など神道系団体が多少、宗教色を出しても特に問題はないし、熱心な安倍支持者にとっても、自分たちが望むような形でお別れができるのでよほどいい。

「海外の要人がたくさん来るので国葬がいい」的なことを主張される人もいるが、彼らは「国葬」か「国民葬」かなんかこだわりはない。それよりも大切なのは、安倍氏がどれほど自国民に愛されていたのか、ということが伝わるかどうかだ。

明治・大正の時代、国民に愛された政治家、大隈重信の葬儀も一般人が参列できたので「国民葬」と呼ばれた。一説には30万人も訪れたという。

この時代から人々は「役人がやる堅苦しい国葬なんかより、市民が自発的にお別れが言えるオープンな会の方がいい」と思っていて、国民がそれを意思表示した結果だ。

そんな先人たちの思いを、我々は今回も無視してしまった。国葬にすることで一部の保守的な考えの人たちは満足かもしれないが、そのせいで、安倍氏は死してもなお批判の対象であり続ける。

吉田氏の国葬の時もそうだったが、国葬なので政府が国民に黙祷を「お願い」するわけだが当然、それに反感を抱く人たちがいたり、シラけた人がその行為をバカにしたりする。国葬にしたせいで、権力批判のバイアスがかかってしまう。生きている間はどんなに敵対している人でも、亡くなったらノーサイドでお悔やみを、という日本人のいいところが、「国葬」でかき消されてしまっているのだ。本人や遺族にしてみれば、こんな酷なことはない。

政府は故人を利用するのではなく、故人や遺族の立場にたったお別れの場を検討してほしい。

ダイヤモンド・オンライン