僕が子どもの頃、鎌倉に暮らしていた小林(秀雄)の家に遊びに行くと、僕が寝る和室の部屋に怖い絵が掛けてあった。それが「ゴッホの手紙」を書くきっかけになる(烏のいる麦畑1890年)のレプリカだった。コロナ禍の前年(2019年)僕はそのホンモノを所蔵しているアムステルダムのゴッホ美術館と、これから述べるヘレーネ・クレラー=ミュラーが建造したクレラー=ミュラー美術館とセットで二度目の訪問を果たす。

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Shinya Shirasu
作品番号67/Country Road in Provence by Night(夜のプロヴァンスの田舎道)』/フィンセント・ファン・ゴッホ作/1890年5月/油彩、カンヴァス/クレラー=ミュラー美術館 所蔵

 祖父の文章がきっかけではあったけれど、ある時は名作の舞台になったアルルのカフェや跳ね橋、オーヴェール・シュール・オワーズにあるゴッホの墓参りなど隈無く訪ねたのだから、好きな画家の一人ではあると思う。このたびの展覧会「響きあう魂 ヘレーネとフィンセント」は、作品ばかりではなくコレクターの生涯にもスポットを当て、コレクションがどのように形成されたか、いろんな気づきがある展覧会構成になっていた。

 炎の画家として、またわが国では「ひまわり」を描いた画家として殊に知られたファン・ゴッホ(1853〜1990)。彼の母国オランダで生前一枚も売れなかったというゴッホの油彩90点余り、版画約180点を蒐集し、世界最大級のゴッホコレクションを築いたヘレーネ・クレラー=ミュラー(1869〜1939)は、1908年初めてゴッホの作品を購入する(作品番号42「森のはずれ」1883年)。

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乗馬をするヘレーネ・クレラー=ミュラー(1900年ごろ)

 展覧会では、ルノアールやピサロなどゴッホと同じ印象派の作品も飾られてはいたが、ヘレーネの蒐集はゴッホに偏っていった。美術蒐集の師であったヘンク・ブレマーから紹介されたゴッホの書簡集に強い感銘を受けたヘレーネは、どんな画家よりもゴッホの作品には人間の内面が現れていると感じ、「彼はただの精神障害者ではなく、人間の魂を映し出す鏡のような考えを持っている」とまだ無名に近かったゴッホに共感し、手紙から作品も読み解いていったのだ。

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ランゲ・フォールファウト1番地(ハーグ)での展示の様子(1933年11月)

 これは小林と同じアプローチでもある。「私は、どの絵も、熟読した彼の書簡を思わずに、眺める事は出来なかった。どの絵を裏返してみても、手紙の文句が記されていている様な気がした。絵が額縁の中に自足し、安んじている事が出来ず、背後に記された呪文によって、揺れ動き、外に出て行こうとする様子をしている様に見えた」(小林秀雄 近代絵画 ゴッホ)ゴッホの画業は短い期間ではあったが、画だけではなくその内面とも繋がれる稀有な画家だった。ヘレーネは蒐集することでゴッホと会話し、小林は書くことでゴッホに近づいていく。その橋渡しがゴッホの書簡集だったのだ。

 こうしたヘレーネの蒐集はやがて話題になり、コレクションに対する評価が高まり、欧州や米国各地で展覧会が開催されるようになる。何事も個人コレクターの強い意志と作品に対する愛情、理解からいいコレクションが形成されると思う。特にヘレーネのコレクションは、夫の良き理解があった。ゴッホに出会うこと7年前、オランダ政治の拠点ハーグに、ゴッホの絵画購入に惜しみのない援助をしてくれたヘレーネの夫「鉄鋼王」と呼ばれた富豪アントンのミュラー社が建てられた(1901年)。この度の展覧会ではその社屋に於いて、ゴッホの画を飾り一般公開(1929年)した時のパネル写真も飾られていたが、まさに所狭しといった感じであり(写真)、ヘレーネは長らく不満に思っていたという。その後大病を患い、療養に励んだオッテルローの森でゴッホの美術館構想が練られていった。

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開館当初のクレラー=ミュラー美術館の展示室(1938年7月)

 だが、世界恐慌の余波もありミュラー社は破産の危機に瀕していた。ヘレーネはコレクションの散逸を防ぎ、自然に恵まれた美術館建設を実現するため最後の賭けに出る。オランダ政府ときの文部大臣を二日がかりでオッテルローの森を案内し、ゴッホを中核とする一万点以上のコレクションを国に寄贈することと引き換えに、この森を保護し美術館を建設する約束を取り付けた。

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開館初日、クレラー=ミュラー美術館を案内するヘレーネ(1938年7月13日)

 1938年国立公園に指定された森に、クレラー=ミュラー美術館は完成し、初代館長に就任する。開館直前体調のすぐれないヘレーネは、車椅子から指示を出し、展示室の内装や備品にまで気を配る。これはハーグ時代からの望みで、作品展示は人任せにしてこなかったと言う。アムステルダムの市立美術館に作品を貸し出すときでさえ、自らの手で展示したというから驚きである。開館を見届けたヘレーネは翌年70歳で他界する。

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作品番号71/『Seascape near Les Saintes-Maries-de-la-Mer(サント=マリー=ド=ラ=メールの海景)』/フィンセント・ファン・ゴッホ作/1888年6月/油彩、カンヴァス/ファン・ゴッホ美術館(フィンセント・ファン・ゴッホ財団)所蔵

 僕はゴッホの画を飾っている素朴な額に着目したい。きっとヘレーネが指定して誂えたものだと思う。会場で先に記したルノアールのそれや、ゴッホ美術館から特別出品されていた(作品番号71)と比べてみて欲しい。木肌のすっきりした、オッテルローの森や若かりしゴッホが素描に励んだオランダの情景と重なってくる。ヘレーネはゴッホの自然画を好んでいたのは最初の画(作品番号42)から明らかで、ゴッホの美術館の場所として、そこに似合った自然素材が相応しいと確信していたように思う。

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作品番号42/『Edge of a Wood(森のはずれ)』/フィンセント・ファン・ゴッホ作/1883年8 - 9月/油彩、カンヴァス/クレラー=ミュラー美術館 所蔵

 ヘレーネの棺はゴッホの展示室に一晩置かれ、オッテルローの森の丘の上に埋葬された。「百年後、文化的な遺産になるような美術館にしたい」と言う理想は現実になり、年間40万人もの来館者を迎えているという。わが国には毎年のようにゴッホの展覧会が開催されるが、状況が許せば現地に赴くことを薦める。

 首都アムステルダムから東へ80キロの小さな街オッテルローの程近く、広大なデ・ホーヘ・フェルヴェ国立公園の深い森には、砂丘やヒースの原野が広がっていて、ウサギや鹿、羊など小動物の姿も目に出来る。時間が許せば美術館まで車で乗りつけるのではなく、5500ヘクタールともいう公園を1日レンタサイクルで周遊するといい。美術館だけではなく、160点もの彫刻の森もあり見所にも事欠かないという。三度目の機があれば僕も試してみたいと思っている。

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作品番号/61『Landscape with Wheat Sheaves and Rising Moon(麦束のある月の出の風景)』/フィンセント・ファン・ゴッホ作/1889年7月/油彩、カンヴァス/クレラー=ミュラー美術館 所蔵


  

東京都美術館
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展覧会のご案内

ゴッホ展──響きあう魂 ヘレーネとフィンセント

期間/2021年9月18日(土)~12月12日(日)
※日時指定制 ※9月27日(月)臨時開室

場所/東京都美術館
住所/東京都台東区上野公園8-36
TEL/03-5777-8600(ハローダイヤル)

展覧会公式サイト
西洋美術館公式式サイト


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写真提供:白洲信哉

白洲信哉

1965年東京都生まれ。細川護煕首相の公設秘書を経て、執筆活動に入る。その一方で日本文化の普及につとめ、書籍編集、デザインのほか、さまざまな文化イベントをプロデュース。父方の祖父母は、白洲次郎・正子。母方の祖父は文芸評論家の小林秀雄。主な著書に『小林秀雄 美と出会う旅』(2002年 新潮社)、『天才 青山二郎の眼力』(2006年 新潮社)、『白洲 スタイル―白洲次郎、白洲正子、そして小林秀雄の“あるべきようわ”―』(2009年 飛鳥新社)、『白洲家の流儀―祖父母から学んだ「人生のプリンシプル」―』(2009年 小学館)、『骨董あそび―日本の美を生きる―』(2010年 文藝春秋)ほか多数。近著は、『美を見極める力』(2019年12月 光文社新書刊)。