「乗艦の修理が終わり次第、沖縄へ特攻」 軍歌を歌い、仲間と決死の覚悟を誓った 待機が続き玉音放送が流れた〈証言 語り継ぐ戦争〉

 2021/04/19 10:45
旧海軍兵時代の大薗哲則さん
旧海軍兵時代の大薗哲則さん
 ■大薗哲則さん(91)鹿児島市日之出町

 旧海軍の宇佐通信演習所(大分県)で特別に父との面会を許された後、1945(昭和20)年1月、同期とは別行動となった。下松演習場(山口県)で10日ほど何もしない時間を過ごし、銭湯にも通えた。防府通信学校(同)へ戻る汽車内で、横須賀通信学校(神奈川県)に配属となると教官から聞いた。成績優秀者が命じられる補修員だった。

 あの厚遇された10日間は何だったのか…。同じ頃、沖縄に出撃前の戦艦大和が瀬戸内海にいた。憧れの大和に乗艦したいなら、補修員になれる成績を取るよう普段から言われていた。大和に乗る可能性があったのではないかと推測している。

 横須賀では、教官助手として初年兵の面倒を見た。間もなくして空襲警報がけたたましく鳴り響いた日があった。夜になり東の方を見渡すと、真っ赤な夜空。3月10日の東京大空襲だった。不思議と言葉が出なかった。最後まで戦う覚悟だったとはいえ、心の奥では負け戦を感じていたのかもしれない。

 6月には佐世保海兵団(長崎県)に転属となったが、すぐに浦賀ドッグにいた海防艦「蔚美(うるみ)」乗艦となり、横須賀へとんぼ返り。「修理が終わり次第、沖縄へ特攻予定」と聞いた。待機が続き、防空壕(ごう)を掘ったり、機密書類を整理したりするのが日課。毎日決まった時間に仲間と軍歌を歌い、互いに決死の覚悟を誓い合った。士気を上げるためだったのだろう。

 実は蔚美が修理中でなく、完成間近の新造船だったと知ったのは、戦後60年ほどたってからだ。ドッグに係留中の大破した艦が蔚美と聞かされていたのは偽装だった。敵を欺くにはまず味方から、ということだろう。

 8月15日は全員集合して玉音放送を聞いた。電波状態が悪く、もう一踏ん張りと激励されたと勘違いした。敗戦と分かり、泣いたりデマだと叫んだりする人であふれた。佐世保にいったん戻るまでの数日間、書類の焼却に追われた。

 佐世保で正式に解散となり、鹿児島へ。実家がある内之浦に向かう途中、保安員から鹿屋基地へ行くよう指示された。電信室があった第5航空艦隊司令部壕(鹿屋市新生町)にも入った。真っ暗で既に機器類もなかった。進駐軍が来るという情報が広がり、女性や子どもが高隈山に逃げ込むなど大騒動。方々で復員の証明書を示しながら家路に就いた。

 特攻の生き残りと恥じたこともあったが、戦後長く通信関係の仕事に従事し、日本の復興に尽くした。戦艦大和などで命を落とした先輩や同僚に恥じないよう働いた。戦争に正義はない。いかに教育が大事かを痛感する。戦前戦中は軍国少年となるよう幼い頃から暗示をかけられた。自由に言いたいことを言える社会を大切にしてほしい。

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