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櫻井 翔:「独立自尊」の気風が育んだ 嵐の20年

2020/05/15

  • 櫻井 翔(さくらい しょう)

    塾員(2004 経)。慶應義塾普通部時代よりジャニーズ事務所に所属し、芸能活動を開始。1999 年「嵐」結成以降、各方面で活躍。

  • インタビュアー石川 俊一郎(いしかわ しゅんいちろう)

    慶應義塾名誉教諭

塾高時代の「両立」

──櫻井君と最初に会ったのは1999年、高校3年生の時でしたね。11月のワールドカップバレーボール大会のイメージキャラクターを「嵐」が務めていましたが、あの時は本当に大変でしたでしょう。 

櫻井 そうそう、大変でした。嵐の他のメンバーは事前に会場に行っていましたが、僕は塾高の授業に最後まで出てから、1人で新横浜から仙台、大阪、名古屋に行って夜のバレーボールの試合を応援する。そして間に合えば深夜、間に合わなければ翌朝に戻ってきて学校に行く、という感じでした。

──前の晩、テレビに映っているのに、朝は1時間目にいる(笑)。「この人はよくやるな」と。そんな中で無遅刻無欠席を続けていた。

櫻井 学校側のご理解があったからだと思います。芸能活動を始めた普通部2年の時、学校側としては「それはご家庭の判断で」ということで、賛成も反対もないということでした。塾高も同じスタンスでしたが、何て言うのか、自由にさせてくださる、という意味では、認めてくださっていたのかなと理解していました。

──その通りですね。まわりの生徒たちもワイワイ見に来るとか、そういうのは一切ない学校だし。

櫻井 男子校で有り難かったですよ。キャーキャー言う人がどこにもいない(笑)。でも、高校3年間は大変申し訳ないことに、よく授業中に寝てしまうこともありました(笑)。

──僕の授業で、他の生徒が心配して起こそうとするんで、「櫻井君は皆にはできない体験をしている。これは彼にとって将来糧になることだから起こすな」と言いました(笑)。

櫻井 すみません、失礼な話です。

きつかったのは、高校3年と、大学の2、3年ですね。高校の時は、デビューしたばかりで、仕事のペースも分からない。でも学生だから学校を休むわけにはいかず、いわば初めての両立という意味で大変でした。

大学3年の時は、ちょうど後期の試験の時に、僕は初めて連続ドラマの主演もやらせていただいて、もう試験と丸かぶりだったので相当大変でした。高校、大学時代のその経験があるから、今、多少忙しくても、「あれを乗り越えたんだから」というのはありますね。

友人に恵まれた慶應時代

──櫻井君は幼稚舎から慶應に入り、普通部時代から仕事と両立させ、大学まで16年で留年をせずに卒業した。ご両親との「学校を休まない」という約束を有言実行したわけですね。

櫻井 そう言っていただけると嬉しいのですが、まあ、意地でしたよね(笑)。ジャニーズ事務所に入って芸能活動をするということは、当然、一部の先生や保護者の方々から多少なりとも良く思われていないところがあったと思うんです。その中で、どうしたら芸能活動を続けられるか。それは学生の本分である学業を疎かにしないことだと思いました。

それは、自分の親に向けてもそうです。大学に入る時も、「もし嵐を続けるんだったら、留年したら学費は自分で払え」と親には言われました。それは、留年したら芸能活動させてもらえない、ということだなと思いました(笑)。

ですから、意地だったのが半分。もう半分は本当に友達に恵まれていました。ノートを貸してくれたり、いろいろな面で本当に慶應の時の友達には恵まれています。

──大学生の時には早慶戦で会いましたね。皆と一緒に、学生応援席で応援している姿を見て、特に騒がれることもなく大学生活を謳歌しているな、と思いました。

櫻井 友達の彼女がチアリーダーでしたので、その子を応援しに行っていました(笑)。楽しかったです。自分がずっと慶應義塾にお世話になったお蔭だと思っています。僕みたいな仕事をしている人間は、やはり、物珍しく思われるので、大学から入ったら大変だったと思います(笑)。

だけど、有り難いことに昔からの仲間たちが時に守ってくれました。何より大学1年生の時は月曜日から土曜日まで授業を取っていたので、入学して最初の1カ月こそ、女の子が「櫻井、いるらしいよ」みたいな感じで見に来ましたが、「あいつ、毎日いるな」みたいな感じで別に珍しくもなんともなくなった(笑)。

卒業式の時の記者会見でも言いましたが、僕が尊敬しているのは体育会の人たちなんです。体育会の人は試験ギリギリまで毎日のように練習していた。そういう頑張り方には大きな影響を受けています。自分が生ぬるいことを言っていてはだめだと。

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