Wed 180404 「これから」に悩む/長老様に相談だ/慌てる長老様(フランスすみずみ13)
これを書いている時点で、4月27日、日本時間で15時を回ったところである。何度も書いている通り、ワタクシが10年前に宣言した「10年毎日更新」を達成する日が、6月26日の誕生日ということになっているから、「残りちょうど2ヶ月」ということになった。
ついでに言えば、今日の名目上の日付が4月4日。名目と実際の日付がこんなにズレてしまったのは、主に2010年11月の網膜剥離 → 緊急手術と、2011年3月の東日本大震災の影響であるが、ブログ開始が2008年6月5日、その意味でもやっぱり「残り2ヶ月」の日を迎えることになった。
すると諸君、「来し方 & 行く末」というコトバの重みを、ギュッと実感することになる。「来し方」とは「今まで」のこと。「行く末」とは「これから」のことである。
(ルルドの町で、黒猫さんと遭遇する)
昭和のむかし、吉田拓郎という人が「今日まで、そして明日から」という曲をヒットさせた。1971年の発売。翌1972年、映画「旅の重さ」の挿入歌となった。ずいぶん古い映画であるが、今井君は1980年代の高田馬場「早稲田松竹」の暗闇で数回、繰り返して観たものである。
映画の話はともかく、やっぱり「あと2ヶ月」というところまでくると、「今日まで」はとりあえずいいとしても、「明日から」がだんだん大きな問題になってくる。
この10年、毎日あまりにも楽しくブログ記事を書き続けてきたワタクシとしては、6月26日の誕生日の後、「どうして生きていけばいいものですかね?」であって、その悩みは意外なほど深い。
昨日も書いた通り、毎日毎日おもしろおかしい動画を撮影して掲載するほど、丹念な粘り強さはワタクシにはない。そうかと言って、今日まで10年継続してきた「1日A4番3枚がスタンダード」という一般人長文ブログは、もう完全に時代遅れである。
今井君には、時代遅れと分かっているものを意地でも継続する精神力はない。「10年」と約束して、その「約束を守るため」というインセンティブがあるからこそ、こうして遥かな旅先でも朝4時にノコノコ起き出してこうして頑張っているけれども、達成後の継続はちょっと考えられないのである。
(ルルドの町でピザを食らう)
「6月27日以降、どうすっかな?」。いろいろ人に相談してもいいけれども、何しろ今井君は予備校の世界ではもう長老だ。長老とは逆に、若い諸君に絶対的な信頼感を居抱いて相談されるべき存在である。
長老なんてのがマヌケヅラで「ワタクシ、これからどうして生きていきましょうかね?」と、ドタマを傾げている悩んでいるなどという図は、マコトに情けないというか、すでに概念矛盾であって、本来こういう場で「悩んでいます」などと打ち明けるのもマナー違反なのかもしれない。
(ルルドの昼食に、赤ワインも1本痛飲する。ボルドーが近いから、サンテミリオンがとっても安い)
例えば1858年2月、岩山の陰の薄暗闇でマリア様を目にした14歳のベルナデットだって、村の長老様に相談しに行ったに違いない(スミマセン、昨日の続きです)。ママにそんなことを告白したら、きっとシコタマ叱られる。パパなんか、最初から全く相手にしてくれないだろう。
「何を、バカなこと言ってるだ?」
「バカなこと言ってるヒマあったら、もっとタキギをたくさん集めてくるだ」
「ホントは怠けたくて、そんな夢みてえなバカなこと言ってるでねえだか?」
「働け、この親不孝もの。掃除に洗濯、兄弟の世話!! お前を怠けさせるためにお腹をいためて産んだわけじゃねえだよ」
実際にはどうだかわからないが、日本によくある19世紀の時代劇では、まあそういうことになっている。
(ベルナデットの生家。生まれた頃は、なかなか裕福だった)
叱られるばっかりで相手にしてもらえないベルナデットは、きっと村の長老様のところを訪ねていっただろう。または神父様、ないし小学校のセンセだったかもしれない。
「おら、どうしたらいいんだべ」
「見ちまっただよ。マリア様を見ちまっただよ」
「ウソじゃねえずら。確かにマリア様だっただよ」
「ホントずら。キレイな白い服を着て、ムラサキの帯をしめていらっしゃっただ。教会にあるマリア様そっくりだっただよ」
そうやって14歳の少女にギュッと熱く泣かれてしまえば、長老様もセンセも神父様も、誰だって困り果てたにちげーねーだ。「マボロシだんべさ」の一言では済ませられない。「おめー、ウソついてんな?」じゃ、パパやママとおんなじだ。
(貧しくなってからのベルナデットの家「ル・カショー」。たった一部屋に家族がギュッと集まって生活した)
そこで例えばサトイモ長老なら、昨日の記事の締めくくりに書いた通り、
「それはじゃの、ピレネーという白いキレイな山の天女さまだったんじゃ」
「白い衣装は山の雪、青い帯は春の山の麓の景色」
その種のことを言ってゴマかす手に出るが、さすがにベルナデットちゃん、その手のゴマカシに引っかかって諦めるようなコドモではない。
「じーちゃん、なに言ってるだ」
「長老様、ゴマかすんでねえだ」
「まちげえねえ、おらは見ただよ」
「見ただけではねえ。おコトバも聞いただよ。泉が湧いてる、泉の水で顔を洗え、手も洗え、そうおっしゃっただよ」
「そもそも長老様(ないし神父様またはセンセ)、今まで『山の天女様』なんて、おらたちに一回も話したことねえでねえか」
「ゴマかしてるだ。おらには分かる。長老様はゴマかしてるだ」
「ウソついちゃならねえぞ。長老様はいつだってオラに『ウソついちゃならねえ』って言ってるでねえか」
「なら、長老様もおらにウソついちゃならねえ。あれはまちげえなく、キレイで優しいマリア様だっただよ」
(ルルド駅、4月14日。ストライキのため、発着する列車は皆無。駅舎全体がロックされてしまっていた)
ま、こういうふうで、長老様はベルナデットの勢いにタジタジ。21世紀の今井君が「自らのブログの、目標達成以後の行く末」で悩んでいるのに負けず劣らず、悩みはマコトに深い。
だって諸君、よく考えてみれば「長老様」なんてのは、ギュッと年取ったおじーちゃんにすぎない。何か強烈に深く学んだ偉い学者先生であるわけではない。「古老の知恵」のカタマリであって、すべては経験則、経験のあること以外には全くわからなくて当然なのだ。
だから、未経験のことを前にした長老様というものは、意外なほど無力なのである。映画とか芝居でもそうじゃないか。いったん予想外の暴発や激流が発生すると、長老様に該当する登場人物は、目を丸くして恐慌状態に陥り、何やらモヤモヤ&ブツブツ、わけのわからんことを呟きながら消えていく。
(歩き回ってもうヘトヘトだ。駅前のベストウェスタンホテルに立ち寄り、バーのビールに癒される)
ベルナデットの写真を眺めると、どれもマコトに悲しそうなのである。19世紀後半といえば、日本にも写真術が伝わって、坂本龍馬も大久保利通も、森鴎外もその母・峰子も、みんな張り切って写真に収まっている。
たった1枚撮影するのに、準備を含めて数時間もかかった大仕事だ。そりゃ張り切った表情になるのは当たり前だ。ベルナデットだって、あんな悲しそうな顔になるのはおかしいのだ。
当時の超先進国フランスと言っても、国境付近の寒村である。村の女子たちの中で、写真なんか撮ってもらえたのは、おそらくベルナデットだけだったに違いない。
それなのに、どの1枚を眺めても、その表情は限りなく寂しそうである。それこそ「そして一粒、スミレ色の涙」みたいな感じ。パパにもママにも理解してもらえず、長老様も神父様もセンセも、慌てふためくばかりなのだ。
そのくせ話はどんどん大きくなって、お堂は立つは、近くの村から人が集まってくるは、「水を飲んだら、ホントに病気が治っただ」みたいな驚きのササヤキが、村から村へと広がっていくは。「いってえ、おらはどうしたらいいだか?」。彼女の写真からは、その激しい悩みが伝わってくるのである。
1E(Rc) Walter & Columbia:HAYDN/SYMPHONY No.88 & 100
2E(Rc) Solti & Chicago:R.STRAUSS/DON JUAN ・ ALSO SPRACH ZARATHUSTRA・TILL EULENSPIEGEL’S MERRY PRANKS
3E(Rc) Collegium Aureum:HAYDN/SYMPHONY No.94 & 103
4E(Rc) Solti & London:HAYDN/SYMPHONY No.101 & 96
5E(Rc) Collegium Aureum:VIVALDI/チェロ協奏曲集
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