軍事評論家=佐藤守のブログ日記

軍事を語らずして日本を語る勿れ

続・かかる軍人ありき=「凄惨・壮絶を極めた第3次ソロモン海戦の白昼雷撃とその後(4)」

(承前)
潜水艦に便乗しショートランドヘ
 この間も敵に投降した者から「投降すればご飯も食える。煙草もある。羊羹もある」と誘われたが、投降すれば戦車で轢き殺されるとの墫もあるので、その誘いには乗らなかった。そして樹の皮を食い、トカゲ肉をしゃぶりながら生きてきたと照さんは語った。

≪海軍設営隊の作業風景=海軍作戦写真記録?から≫  


 阿部を埋葬した夜だった。三井参謀より二十六〜七日頃、味方の潜水艦が西方約二十数里のカミンボに連絡のため浮上し、参謀はじめ「大和」観測員の一部が帰る事になったので、搭乗員は便乗出来るかもしれないとの朗報を得た。
 然し、先程の駆逐艦の時の例もあるので、先走って皆に知らせてがっかりさせてはと思い、密かに三井参謀と話を進めている中に、何とか便乗出来そうになった。
 然し、潜水艦の浮上予定日迄、時間か無いので、取りあえず移動準備をし、本部の皆さんや阿部が世話になった軍医長にお礼を言って出発した。

 照さんや他の者達は羨ましそうな笑顔で「ラバウルに帰ったら、又、攻撃に来て呉れ」と云って、我々を送ってくれた。 

 出発間際に、第一小隊三番機の島崎兵曹の三名と合同することが出来た。
 三番機は敵艦に突撃中に、主操縦員の岡宮兵曹が機銃弾で即死。
 又、通信の梅沢、板野兵曹、搭乗整備の設楽兵曹も戦死したとの事だった。
 吉田は口を貫通され、口が裂け歯が全部もぎ取られ包帯で顔を巻いていて何も食べられぬ状態だった。もっとも食べる物も無かったが…。  


 三井参謀他、「大和」観測隊員は、陸軍の大発で海路をカミンボに行くが、全部乗れないので負傷兵のみ大発の便乗を頼み、私と残りの者は陸路移動する事にした。
 然し、陸路であれ、海路でも常に敵哨戒機が飛んでいるので、昼の行動は無理で夜間しか行動は出来ない。潜水艦の浮上予定日が迫って来るので強行軍の連続であった。

 二十七日早朝、徒歩部隊カミンボ着。海路移動部隊は先に着いていたので、我々のために食事を用意していて呉れた。
 ここは食料も比較的あったので、久し振りに腹一杯食べることが出来た。二十八日夜、やっと潜水艦が浮上する事になった。
 昼頃山手で二発の銃声がした。
 敵襲!早速陸戦隊が配備について、我々にも配備についてくれと言われ、数丁の小銃を持たされた。
 間もなく斥候が帰り、ゲリラである事が判り、芋掘りに出た兵隊が狙撃され負傷したとか。
海岸で潜水艦の浮上を待っていた。


≪当時ソロモン海域で活動していたと思われるわが潜水艦=武器・兵器でわかる太平洋戦争:日本文芸社刊から≫

 潜水艦は、昼の中に潜航して来て、海底に鎮座していて、夜になって浮上するので、それを待っているわけである。陸海軍の参謀達が、時計を見ながら注視している。
 やがて、小山の様な真っ黒い潜水艦が浮上したので、大発に乗り込んで陸を離れ、潜水艦に近づいたが、潜水艦には舷梯が無く、足場になる所は半円の穴だけ。

 当直将校が「何名か」と叫ぶので「三十二名」だと答えると「何だ話が違うぞ」と不審な顔で、降ろされるかと言う不安で一瞬ドキッとするが、「まあよい、急げ、急げ。」と促されてホットする。
 艦には青のりが張っていて、滑って中々上がれない。
 最後に私が乗ろうとした時、突然「空襲!空襲!」「急速潜航!」の号令がかかったので、夢中でハッチに頭から飛び込んでホットする。


 艦内は電灯が赤々として猛烈に暑い。先刻まで荷揚げ作業をしていた軍医長が、汗びっしょりになって我々の建康状態を聞きに来て呉れた。
 室内はクリーム色でカーテンの仕切りがあり、フランス人形、田園風景の絵がかかっていて、我々の乞食のような風体とは全く不調和であった。
 従兵が氷入りレモンジュースと鰻の胆入り缶を運んできた。 


 調子の良いエンジンの響き、艦は静かに潜航、ショートランドに向かっていた。
 翌日も潜航したまま二ノット位で航行していた。
 潜水艦の兵隊は、皆ぶくぶく青白く肥っていた。一度出撃すれば三ヶ月は太陽を拝めないという。その代わり夜の眼は、海上に浮かぶ木の葉までも認められるという。正に訓練の効果である。
 我々飛行隊が対潛哨戒に苦労するのも当たり前の事である。母港に帰り太陽を見ると、暫くの間は色メガネでも掛けないといられないそうである。


 三十日午後、ショートランド港に入港して退艦する。
 第六根拠地隊司令部に顔を出し、横浜航空隊に仮入隊した。一安心したせいであろう、この頃からガ島で感染したマラリヤが発病し始め、何人かは四十度以上の高熱に冒された。
 私も何時までも死んだ陸軍中尉の服を来ているわけにも行かず、羽根田兵曹の飛行服を借り、横空飛行隊長とラバウル行きの飛行便の交渉をした。

≪ソロモン海域を飛ぶ97式大艇=海軍作戦写真集?から≫

 十二月一日、ラバウル要務飛行の九七大艇に便乗することが出来た。
 初めて乗る飛行艇は大した飛行機だ。振動も多く、乗り心地は誠に悪いし馬鹿でかいだけだ。
 離水の勇ましい事。レバーを出したり引っ込めたり……。然し、お陰で無事ラバウル港に着水出来た。早速、司令部に報告に行く。
 司令官自ら参謀を従えて出てこられた。ガ島の詳細の報告を済ませた後、ビールで生還祝いをして戴いた。幸いな事に航空参謀の中西二一中佐(兵五七)は私の前任地、二十二航空戦隊時代の飛行隊長で重慶成都・蘭州の攻撃を共にした人であった。
 
ラバウルで廃材の1式陸攻を整備して帰国準備 
 ラバウル「山の上の飛行場」には千歳空の者は誰もいなかった。我々の攻撃が最後で、之が全滅したので部隊再編成の為、北海道の千歳基地に移動していた。
 そして我々の報告を聞いてくれる者も、戦死した者達の功績を称えてくれる者も、暖かい手で迎えてくれる者もいなかった。我々の私物も、戦死者の物という事で全部整理され、何一つ残っていなかった。
 ラバウルに帰って暫くすると、全員マラリアが発病した。私も四十度以上の高熱の日が続いた。キニーネの副作用か、度々夢うつつの幻覚症状に悩まされた――。
 ―――敵と塹壕で対陣している時だった。直ぐ眼の前に真っ黄色に熟したパパイヤが下がっている。谷口の様だったが、それを取りに行くという。
 私が、狙撃兵が狙っているから止めろ!としきりに怒鳴ったが、到々彼は塹壕から飛び出し、パパイヤに手が届いた途端、バーンと一発の銃声がして、彼はパパイヤの木から崩れ落ちた。丁度第一次世界大戦の「西部戦線異常なし」の小説の様だった。
 長い陰鬱な塹壕戦線に美しい蝶が飛釆したので、それを捕らえ様と手を伸ばした瞬間、狙撃兵に射殺されたのと同じ話の幻覚であった―――。
 ガダルカナルでの、食物に対する執着が未だ消えていないのだ。


 中西参謀からの連絡があった。航空便で内地に帰る事は見通しがつかない。さりとて、病院船も駆逐艦も今の処予定がないので、飛行場に廃棄処分になった一式陸攻が沢山ある。それを飛べる様に整備して、それで帰る様にと。
 其の為、整備員を十数名派遣するとの事であった。
 早速、程度の良さそうなものを見つけ、エンジンを交換したり翼を付け替えたりの作業が始まったが、この頃、私もマラリアの発熱がひどくあまり記憶がなかった。多分二〜三週間かかったかも知れない。

≪それまでのラバウルにおける航空機整備等=同上から≫ 


富士山の白い頂き
 マラリアも大分治まった頃、飛行機も出来上がったので試飛行をやり調子も上々だった。然し、廃棄処分された飛行機なので、機銃・電信機は勿論、航法兵器も何もない。コンパスの磁差すら分からない。
 偵察の羽根田兵曹に「之で内地まで飛べる自信はあるか。」と聞いた処「日本の国は東西に長い、北を向いて飛べばいつか日本列島に突き当たる。行きましよう」との返事。
 流石、四艦隊麾下で内南洋を飛び廻ったベテラン偵察員だ。トラック諸島は島が多いので、先ずトラックに向け進路をとり、到着した島でコンパスの誤差を逆算して求め、サイパン経由で千歳基地に行く事にした。

 
 全行程三千浬近い。一気に常夏の国から雪の国、北海道行きである。我々の服装は、ボロボロになった防暑服、半ズボン、草履ばきで、髪はぼうぼうの乞食姿である。
 八丈島付近に来た頃だった。富士山の白い頂きが雲の上に見えた時は、感無量というか、涙が流れて止まらなかった。
 日本の冬は寒い。三千米上空では、零下十数度。何とも我慢が出来ないので、木更津基地に降りて防寒対策を整えることにした。
 焼け跡の残ったオンボロ飛行機より、乞食姿の搭乗員が下りてきたので、木更津の隊員が異様な眼で我々を見ていた。
 私は海軍中尉の意識があったが、誰も敬礼などしてくれる者がない。浮浪者が迷い込んだ位にしか見ていないのだ。


原隊の千歳基地に着陸、涙の報告 当直将校に事情を説明して、毛布各自一枚づつを借用して、再度千歳基地に向け出発した。千歳到看予定時の電報もお願いした。
 三陸海岸を飛ぶと津軽海峡は吹雪であった。通常ならば必ず引き返す様な悪い天候だった。然し、一刻も早く懐かしい戦友の待っている原隊に帰りたいの一心で、吹雪に突っ込んだ。間もなく、前面の風防ガラスが、雪の為、視界がなくなった。


 翼の前縁に雪が積り回転数も落ちる。横の窓を開き、横目で前方をチラチラ見ながら翔ぶうちに、やがて北海道が見え、懐かしい飛行場の滑走路が見えて来た。
 着陸予定時間を通知しておったので、格納庫前に司令以下三五〇〇名の隊員が整列し出迎えて呉れていた。
 私は司令への報告事項を前以って心の準備をしていたが、司令の前に整列した時は感無量と言うか、涙がとめどなく流れて言葉が詰まってしまった。
 司令は優しく「報告は後刻ゆっくり聞く、先ず病院に行って手当てをする様に。」との事だったので、隊員に助けられながら病室に行った。


 この記録の後半は、その療養中に病室にて思い出しながら書いたものである。
 七〇三空最後の攻鑿隊の搭乗員六十四名中、この機で帰った者は、私と菅谷飛曹長、羽根田上飛曹、島崎上飛曹、松平三整曹、永田飛長(操縦)、谷口飛長(電信)、吉田飛長の九名であった。
 
あとがき 私はその後、幾多の航空戦に幸運にも生き残り、無事復員することが出来た。そして今、彼らの三倍以上の歳月を生き永らえて、平和で豊かな幸せな生活を満喫しているが、一時も彼らの事が心から離れた事がない。
 
 よく、歴史は勝者が作るものだと言う。そして、常に勝者の立場が正当化され、敗者の反論は許されない。
 占領軍であるアメリカの指導の下に作られた新しい日本の社会は、この様に国の為に死んで行った同胞をも、軍国主義者だと極めつけている面もあるが、今日の日本の繁栄は、この人達の尊い犠牲の上に築かれたものである事を確信し、この項を終わる。


≪福地大尉の雄姿=前列左から二人目の飛行服姿=1001空戦友会誌から≫
補足
 これは福地大尉とクルーが、昭和17年11月12日に、ラバウルを出発して撃墜され、ガダルカナル島に漂着。その後、11月14日に海軍設営隊に移動、17日夜半に駆逐艦が入港するも、乗船を断念。25日に阿部飛行兵曹を埋葬、27日カミンボに移動、28日夜、潜水艦に便乗して、30日午後にショートランド港に入港。
 十二月一日には、ラバウル要務飛行の九七大艇に便乗し、ラバウルに生還するも“もぬけの殻”、現地で廃材の1式陸攻を整備することとなる。
 その間マラリアが再発(2〜3週間か)し記憶は定かではないが、組み立てた1式陸攻に乗って飛び立ち、八丈島、木更津を経て、千歳基地に帰還するまでの、約一か月間の経験を記録したものである。下の大東亜戦争海軍作戦経過一覧表を参照。


≪これは「自昭和17年4月20日〜至昭和18年4月15日」として、5ページ半掲載されている表の一部だが、福地大尉の攻撃記録は11・12日の一項目のみに適用される。
しかしこれから12月1日にラバウルに戻るまでに、ソロモン海戦(第3次)、ルンガ沖夜戦が起きているから、この一覧表に書かれていないような、凄惨な状況が地上・海上では繰り広げられていたのである。公式に記録されていない多くの将兵が戦死していった事実を忘れてはなるまい。往々にして戦史は人間の生き様を無視するからである≫

ここで私と福地大尉の出会いを書いておこう。
 福地大尉は栃木県出身の第五期海軍予備学生で、同期生二十名が入隊したのは、昭和十三年四月二日だったというから私が樺太で生まれる一年前のことである。
 福地氏が海軍を志願した理由は実に単純で、「泥臭い陸軍よりスマートな海軍にあこがれた」からだと言う。
「一〇〇一空戦友会報」に掲載されていた氏の手記『私が歩んだ道』には、
〈当時の社会環境は、一九二九年(昭和四年)以来の世界的大不況の流れの中で、日本国の豊かな現在では、想像も出来ないほどの惨憺たる状態であった。
 私は、農学部であったので、学生時代に東北六県の農村調査をした事があったが、当時の東北地方の農家の負債総額は、約百億円ぐらいあったと記憶している。
 当時の国家予算が約六十億円位だったので、現在と比較すれば、本年度予算(平成十四年度?)が七一兆円であるから、東北六県の負債は、現在で見れば優に一二〇兆円という莫大なものであった。
 この様な惨状だったので、子供の間引きで口減らしをしたり、娘を芸者や女郎に売る事が、半ば公然と行われた時代であった。
 又、都会に於いては、至るところにルンペンと称する失業者が巷に溢れ「大学は出たけれど」等の流行歌が歌われたのも、政治の改革により改善を図らねばと若い将校による所謂、五・一五事件二・二六事件などが起きたのも、その頃の出来事であった。

 そして、これ等の不況を何とか克服する為に、かって日清、日露戦争で国民の血をもって獲得した満州・中国の権益を守る目的で大陸に軍隊を派遣していたが、一方、欧米各国も同様で、自国の利益の為に米国は中部支那を、英国は、香港を中心とした南支那を、又、ソ連はソ満国境に強力な極東軍を配備して、その南下を阻止しようとした日本軍との間にノモンハン事件を始め紛争の絶える事がなかった時代であった(一部加筆)〉
と記されている。


 私が福地大尉と御縁を得たのは、平成7年10月17日に松島基地研修で来られたことで、それ以降、戦友会の事務局長・宇田川駒次郎氏から私には毎回「一〇〇一空戦友会会報」が届けられ、生々しい実戦の様子を学ぶ機会を得たからであった。
 ここに掲載したのはその中の一記録に過ぎない。
 会報は退官後も変わらず送られてきていたが、平成十四年の会報で福地会長の逝去を知った。


 戦後の日本は、このような凄惨な体験をされた方々に感謝することもなく、靖国神社に首相たるものが誰に気兼ねしてか、参拝もしない体たらく。
 この恐るべき人間性の欠如と、先輩方を敬う精神の消滅は、歴史と伝統ある日本国の行く末を暗示しているようで寒心に堪えない。

七五年前、国難に際して、かかる軍人たちがいたことを若い人たちに知ってもらいたく、掲載することにした。
 福地大尉は、戦場で逝った部下たちと今頃“談笑”しておられることであろうと思う。
 心から哀悼の誠をささげたい。合掌

大東亞戦争は昭和50年4月30日に終結した

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自衛隊エリートパイロット 激動の時代を生きた5人のファイター・パイロット列伝 (ミリタリー選書 22)

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