軍事評論家=佐藤守のブログ日記

軍事を語らずして日本を語る勿れ

続・かかる軍人ありき=「凄惨・壮絶を極めた第3次ソロモン海戦の白昼雷撃とその後(3)」


(承前)
野戦病院の悲惨
 朝食後、我々は阿部飛長のその後の容態を野戦病院に尋ねて行った。
 半里(注:約2キロ)近くの野戦病院までのジャングルの道で、第一線より病院に後退して行く陸軍の兵にたくさん会った。何れもマラリヤと栄養失調。
 骸骨の如く痩せ衰え、一本の棒に体を支えトボトボと歩いて行く。椰子を一個やったらかぶりついて食べた。「有難う」の声もかすかで聞き取れない。
 道端にはこうした病院まで行けず、精根尽きて行き倒れになった死骸が沢山転がっている。 腹は樽のようにふくれ、顔には無数の蠅がたかっている。


 病院とは名ばかりで、崖の所の大木の木陰に一〜二個くらいの横穴を堀り、ここに薬品・器具を置き、数百名の傷病兵は、周囲のひときわ繁ったジャングルの中に寝ているだけであった。
 軍医は元気な見習士官だった。阿部飛長のお礼とその後の容態を聞く。
 このままでは到底助からない。切開をする事になった。


 元気な軍医と私は同県出身でしかも、私が栃木中学出なのに彼は隣町の佐野中学出身であったのでよく話が合った。彼は私に乾麺包一袋くれた。
 切開するまで、まだ少々時間があるので腰を下ろして休んだ。力ない病兵が、また一人着いて診察を受けた。
「お前は〇〇病だ。お前の命はあと十日だ。向こうで休んでおれ、手当ては無用。」


 渾身の力で辿り着いた病院の宣告で、彼は空ろな眼つきに多少の動揺を漂わせて私達の休んでいる方にやって来て腰を下ろした。
「海軍の方ですか。貴方がたはまた飛行機をとりに内地に帰るんでしょう。私の命はただ今お聞きした通りです。私の叔父が東京の本郷にいますから、この時計を形見に届けてもらいたい」と頼まれた。
 聞くと彼も東京帝大の工科出身インテリ兵だった。私も帰れる目算がなかったので彼の願いを断った。


 辺りは無数に転がっている腐乱死体の異臭とこれを慕って来る数限りない蠅には閉口した。 スコールがあるたびに、これらの人々は約三〜四十名くらい死んでゆくそうだが、手不足のため、そのままにしてあるとの話に、よく見ると寝ている兵の大部分が死んでいた。中には、手足が白骨になっているものもあった。
 私が乾麺包を食い始めた時である。
 後方の方からかすかな声で「中尉毆」と呼ぶ声がした。
 私は自分が戦死した陸軍中尉の服を着ている事を忘れ、しばし自分を呼んでいる事に気が付かなかった。やがて声の主は地を這いながら、私に近付いて来る。
「何だ、用事があるのか」
「ハイ、中尉殿が食っているカンメンボウの屑でもいいですから、なめさせて下さい」。
 彼に数個の乾麺包をやったら、両手を合わせて拝まれた。子供のような嬉しそうな表情だった。これを目撃した十数名の兵がまた這い出してきた。


 びろうな話だが、垂れ流しの異様な色と匂いのするズボンを引き摺りながら。うまいうまいと本当にうまそうに食った。
「死ぬ前にもう一回、東京のニギリズシが食いたいな!」東京出身らしい兵が云った。
 宮城前の広場で閲兵を受けた、あの威風堂々たる皇軍兵士の変わり果てた姿とは、どうしても想像出来ない。

≪昭和の大観兵式=インターネットから≫


 また、傷病兵の一人が云う。
「横に寝て起き上がれなくなると二週間は生きられない。寝ても未だ顔にたかった蠅を手で追い払うことが出来るうちは、未だ一週間は寿命が有るが、追い払う事が出来なくなり、鼻の穴や口から蠅が出入りする様になると三日以内には死ぬ。そして翌日になると、蛆が這い出して来る。」
 この様な現象は判で押した様に誰でも同じそうである。
 阿部の仙台工専の先輩で、陸軍軍曹が居た。彼は「破傷風」にやられたとかで体全体が硬直状態になり、丸太ん棒の様に真直ぐに伸び、関節の曲がらない足でポックリポックリと歩いて居た。
 そして軍医に「どうしても前線に帰り、敵と戦いたい」と言い張って「そんな体では無理だ」と、軍医に殴られ、棒が倒れる様に直立したままドッと音を立てて倒れた。
 前線に帰り戦いたいとの激しい闘魂には深く感動した。さすが日本陸軍なる哉である。


 その他、肩から腕をもぎ取られ傷口より蛆がわいている軍医やマラリヤで青黒くなりあたかも印度兵と間違える様な者、アメーバ赤痢に罹り、骨と皮に痩せこけた兵隊、足の無い者、手首を失った者等々、その惨状は眼も当てられない。将にこの世の地獄であった。
「今朝は二十五個だ」と話す声がする。
 昨夜の中に独りで死んで行った人々の屍の数である。夜となく昼となく死ぬ。スコ−ルの後は特に多いという。宵の口に死んだ人は明け方には蛆がわくという。
 人間の強靭さと脆さと生命の儚さをつくづぐ感じさせられる。
 此処では毎日死んでいく人の死体を一個、二個と品物の様に数えるのである。
 もし之が内地であったなら。定めし大勢の肉親に見守られながら一嬉一憂されて死ねるだろうに……。

≪壊滅した陽動部隊の住吉支隊(1942年10月24日、マタニカウ川河口)=ウィキから≫。


 阿部飛長の切開は始められた。私は主操縦、彼は副操縦の関係上、階級を離れ、兄弟の様な親しみがあった。
 麻酔薬一つない彼の腹部切開は、どうしても見るに忍びなかった。彼の苦痛を訴える悲鳴はだんだんウワゴトに変わっていった。
  

海軍部隊に移る 海軍部隊に連絡を取りに行った菅谷飛曹長が帰って来た。その結果、明十四日に二〜三里後方の海軍部隊に移る事にした。
 阿部飛長を急造の担架に乗せて後方に退った。
 途中、川の辺で一休みしていた時だった。何処から飛んで来たのか、不意に敵の戦闘機の銃撃を食らった。
 ダダダ…ン、あたりに銃弾が飛び散る。我々は勿論すっとんで逃げたが、腹部切開をしたばかりで担架に縛りつけられたままの阿部飛長までが担架を背負った儘逃げたのには驚いた。
 まだ元気がある。この分では必ず助かると自信を深めた。


 この海軍部隊は、第十二設営隊であった。
 本部は藤づるの絡まる密林の中にあって、藤づるが網の様になっていて、太陽の光線か全く届かない不衛生極まりない所だが、敵飛行機を避けるには都合の良い場所だった。私は士官用のバラックに入った。
 そこには戦艦大和の観測隊と共に、飛行場砲撃の第二艦隊の三六糎砲の弾着を観測するために来た三井謙二参謀(兵五五)と特潜での攻撃に失敗して陸岸に乗り上げてしまった廣中尉と三人であったが、三井参謀はこの時、「学徒出身の士官を大量に養成する事が目下の急務で、生きて帰れたら必ず海軍省に出向いて強調したい」と言っていた。


 この十二設営隊も当初隊員が千五百名位だったそうだが、今は生存者が約1/3位しか残っておらず、その中、軽作業の出来る者は僅か二十名足らずとの事に誠に心細い限りである。
 そこで我々は、毎日椰子の実採りをやった。我々以外に椰子に上る様な元気な者がいなかったからである。特に猿の様に木登りの上手な谷口は得意中の得意であった。
 同じ海軍だったのでラバウルの原隊とすぐ連絡がとれ、帰還予定もすぐ手配し通告してくれた。
 連絡によると我々の雷撃隊で完全に基地に帰れた者は、その日ただ一機との事。私の中隊の二小隊長機だった。
 我々は食料を輸送して来た駆逐艦で帰る事になった。近くのクサファロング港が味方の補給港だったため、我々の宿舎からこの地方に対しての砲爆撃は言語に絶するものだった。
 さしものジャングルも、広大な椰子林も砲撃のため、殆ど真っ赤に枯れていた。私達は夜になると、毎日この港に来て砲弾の穴に身を隠し、駆逐艦の入港を待っていた。


駆逐艦は入港したが…… 十七日夜半だったと思う。敵の眼を逃れて、一隻の駆逐艦が入港した。
 帰還予定の傷病兵が、急にあちらの藪、こちらの穴から這い出して来た。百名、二百名、帰りたさの一心、最後の力を振り立たせ、一里も二里もの道のりをよろめきながら来た人々である。
 駆逐艦からカッターが降ろされ、食料、弾薬が陸珊けされたと同時に、一人で到底腰も立たない様な重病兵が一度に押し寄せる。
 この艦で帰らねば、爆撃と空腹と斗いながらガ島で、のたれ死ななければならない彼らなのである。
 もはや命令も統制も無い。
 地獄の底から這い上がろうとする無数の病人は、波にもまれながらカッターの舷側を握って離さない。このまま放置しておけばカッターは転覆してしまう。
 艇長は必死になって野球のバットの様な棍棒を振り上げて無茶苦茶に殴りつけた。そのたびに鈍い音を立てて、一人づつ海中に沈んで行く。
 やがて病人を満載したカッターの出た後には、最後の生きる望みを失った人たちが二〜三十人浮きつ沈みつ波間に消えて行く。
 我々は駆逐艦による帰還を断念した。

ガダルカナル島への鼠輸送のため駆逐艦に乗り込む将兵=ウィキから:まさかこのような悲惨な撤退になるとはだれが想像できたろうか?≫ 


阿部飛長の最後 こんな事をしている間に、阿部飛長の容態はだんだん悪化して行った。
 傷口よりは黄色い液が沢山出た。彼の顔も次第に血色が悪くなり、苦痛も訴えなくなった。 遺言を聞いても、ただ「済みません。家の者にも皆の多幸を祈ると伝えてくれ。」と言うだけで力の限り戦った者の満ちたりた顔つきであった。
 已の肉体の苦痛を忘れ、看病を感謝する美しい心だった。


 二十五日、例により早朝病室に行く。付き添いの永田は、連日の疲労で無心に眠りこけている。
「おーい、気分はどうだい」
 返事が無い。毛布をまくってみると、彼の体は硬直していた。
「阿部!阿部!死んでしまったのか、こんな不自由な生活でさぞ苦しかったろう。だが、最後までよく頑張ってくれた……」


 切開手術の時軍医より、弾は腸を避け肝臓をかすめて貫通しているので助かる確率か多い。 「よく手当てをされたい」との事だったので、皆で出来るだけの事はした積りだったが、食料だけはどうにもならなかった。
 隊からの配給は一日カユ少々だけ、阿部の栄養補給のため、野豚狩りを計画したが、ゲリラが危険であるといって止められ、椰子筍を食べさせたいと思って椰子の木を切り倒そうとしたら、椰子を切った者は死刑に処すとおどされた。
 椰子を切ると直接、飛行機の攻撃にさらされるので禁止されていたのを、新参者の我々は知らなかった。
 又、河にボラが泳いでいるが、とても捕まらない。手榴弾でもあればと思うが、そんな気のきいたものは無い。部隊の周辺には草の根であれ、木の芽であれ、蛇やネズミまで口に入る物は皆無である。
 死因は栄養失調であった。長身の彼が骨と皮だけで胸だけが太い。
 肋骨の一本一本の間は谷の様にへこみ、足の関節だけが松の瘤の様に大きく、何とも説明の仕様もない状態だった。
 手術口は未だ治ってなく、肋骨一本が外に突き出ていた。その他我々も知らなかったが、背中に大きな傷とひどい床ずれの跡があり、全く正視出来ない状態だった。


 午前中、敵飛行機のすきを見て、一番上の墓に頭を北に向けて葬った。
 そして、その上に木を削って「故海軍二等飛行兵曹阿部冬之墓」と私が鉛筆の芯をなめながら書いた墓標を立て「骨は必ず拾いに来るぞ。」と約し、一同手を合わせて彼の冥福を祈った。
 兵舎の方は阿部が居なくなったので、墓地の下の方の小屋に移った。

 小屋の主は大津照さんという、四〇がらみの藪睨みの如何にも一癖ありそうな人物であった。
 彼は軍属で、話によると、横浜市六角橋の近くの八百屋で女房が長患いで入院中、女遊びを覚えグレ出した小博打打ちだと、自称していた。
 特にインチキ花札賭博は名人だと威張っていた。もし内地に帰れたら、温泉を廻ってインチキ賭博をやるのを楽しみにして居ると語った。
 そして又、「戦争に行って死んで呉れれば、親戚縁者にも申し訳が立つから是非死んできてくれ」と女房から頼まれた等と言っていたが、然し彼の部隊で生き残ったのは皮肉にも彼独りらしい。
 彼の部隊は設営隊で、ガ島飛行場の建設に当たっていたが、完成二日前の早朝、突然敵の艦砲射撃と飛行機の爆撃を受けた。
 丁度その時は朝食時であったので、ある者は食事半ばで、ある者は箸を持った儘で、ある者は褌一つの作業姿で、蜘蛛の子を散らす如くジャングルに逃げ込み、誰一人として敵に向かう者はいなかったそうである。


 然し、陸戦隊の人達は何とか飛行場を死守しようと努力していた様であるが、やがて自動火器を持った米軍の海兵隊が戦車に守られ、旅団単位の人数が上陸して来たので、百名前後の三八式歩兵銃だけの装備ではどうにもならず、ジャングルに引き上げたらしいとの事。

≪ジャングルを進む陸戦隊=海軍作戦写真記録から≫
 
 ジャングルはターザンの映画で見る限り果物・木の実が沢山有り豊かそうに想像されるが、現実には全く反対で、剌の生えたブッシュや蔓草か繁茂し、中に入り込んだら、進む事も退く事も出来ず、方角も判らなくなり、太陽の光も入らず、海に落ちたより始末が悪いので、逃げ込んだ大部分の者はジャングル内で餓死したか、敵に投降して了ったかだ、とは照さんの話である。
 そして、彼は味方部隊に辿り着く迄、三十数日ジャングルを放浪して歩いたと言う。(続く)


≪1942年8月ヘンダーソン飛行場周辺のアメリカ軍展開図:ウィキから≫

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南太平洋戦記 - ガダルカナルからペリリューヘ

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