ご存知の方も多いだろうが、タイにはキッチンがない住宅が珍しくない。シンク(流し)があってもベランダに置かれているという部屋もある。自炊をしない多数派のタイ人を支えているのは、充実した外食環境だ。屋台や食堂、フードコート。街に出ればいくらでも安くて美味しい食事が簡単に手に入る。ほぼ100%、持ち帰りもOKだ。

 そんな国へ、海外6番目の拠点として2015年に進出したのがABCクッキングスタジオ。

 「作らずに食べる」選択肢が無数にあるだけに、料理教室の進出先としては不向きのように思えるが、レギュラーコースへの入り口となる1回完結の1dayレッスンやトライアルレッスンの申込みは月300~400件。今年9月に開催されたJAPAN EXPO(日本の観光、留学、食、アニメ・漫画などの情報を発信するイベント)では3日間だけで260件の申込みを獲得し、2017年9月の売り上げは過去最高を記録した。タイ法人の躍進は、中国、香港、台湾、韓国、シンガポール、マレーシアなど世界各地のABCクッキングスタジオからも注目の的だ。

 いったい、どうやったのだろう?

 「タイ人は料理や食への関心は非常に高いんですよ。クッキングスタジオは6回、12回、18回分の料理教室のチケットを購入していただくシステムですが、タイの入会時の人の購入価格は平均2万バーツ(約66000円)。大半が一括でポンとチケットを購入されます」(ABCクッキングスタジオタイランド・コーポレートセールスマネージャーの藤本真紀子氏)

「商品は一つじゃない。スタジオからいろいろ創っていくのが私の仕事」と話すコーポレートセールスマネージャーの藤本真紀子氏。
「商品は一つじゃない。スタジオからいろいろ創っていくのが私の仕事」と話すコーポレートセールスマネージャーの藤本真紀子氏。

 通っている生徒の料理習慣にも驚かされた。生徒のうち、全体の2割が毎日料理をし、5割は週に1回料理をしている。まったく料理をしないという人は1割。料理教室の生徒だから料理に興味があるのは当然といえば当然だが、この数字は意外なほど高い。

コミュニケーションツールとしての需要があった!

 いつのまにかタイ人は自炊派に転じていたのかと思いきや、藤本氏はこう指摘する。

 「料理に対する考え方が日本人とは違うんですね。タイ人にとって料理はコミュニケーションの一環。日本の場合は、習い事として料理をとらえ、うまくなって資格を取ってステップアップを図りたいという方が多いのですが、タイ人には上級クラスに進もうという発想は薄い。生活に潤いを与え、ライフスタイルに彩りを添えるための手段です」

 例えば、料理をいままさに習っている最中にタイ人は頻繁に写真を撮る。撮った写真はすかさずSNSにアップ。自分が作ったパンやケーキを周囲にアピールするためだ。

完成したケーキを手に自撮りした画像はSNSにアップするのがお約束。投稿がABCクッキングスタジオの知名度アップにも貢献している。
完成したケーキを手に自撮りした画像はSNSにアップするのがお約束。投稿がABCクッキングスタジオの知名度アップにも貢献している。

 「最初の海外進出国である中国では当初レッスン中のスマホ撮影を禁止していましたが、要望があり、撮影については対応することにしました。もちろん調理の工程によっては撮影はできませんし、始終撮りまくっているわけではありません。でも、アジアの国はどこも写真が大好き。SNSにアップされるとPR効果もあるのでありがたくもありますね」

 タイのABCクッキングスタジオには著名な女優やモデルもよく通っているが、彼女たちが料理を学ぶのは家で作るためではない。料理教室で撮った画像や動画は「ほら、私が作ったケーキ。素敵でしょう」と新しいライフスタイルを見せるひとつの方法だ。

 タイにおける料理教室の役割は人気コースからもうかがえる。

 日本同様、タイのABCクッキングスタジオではパン、ケーキ、料理、その他(キッズコースなど)の5つのコースを設けているが、集客力が高いのは圧倒的にケーキとパン。ケーキコースの受講者数は全体の42%、パンコースは33%。一方、日本や台湾でもっとも人気が高い料理コースは19%にすぎない。

集客力が高いのはケーキコースとパンコース。出来上がりを持ち帰ることができるギフト用途が人気の要因だ。
集客力が高いのはケーキコースとパンコース。出来上がりを持ち帰ることができるギフト用途が人気の要因だ。

 「タイ人は料理を身近なものとしてとらえています。その点、ケーキやパンは家で作れないスペシャルなもの。だから料理教室に行ってケーキを作りたい。作ったものをプレゼントしたい。

 そのため誕生日に贈りたいからとその日に合わせて授業を受ける生徒さんも多いです。手作りのケーキを贈ったら喜ばれますからね」

 教室で作って食べたらそれで終わりの料理と違って、パンやケーキは持ち帰りができる。非日常性が高く、見栄えもいい。ギフトとしても「使える」パンやケーキコースがタイで受けるゆえんだ。

 もっとも、ABCクッキングスタジオがタイで順調に生徒数を増やしているのは、単にコミュニケーション好きのタイ人に受けているからだけではない。コースで作るケーキや料理については基本的に日本の内容を踏襲しつつ、現地の志向に合わせて微妙にカスタマイズを行っている。この効果も大きい。

赤やピンクの華やいだ色が好きなタイ人に向けて、菓子コースでは日本のコースの内容を踏まえつつカスタマイズを施した。
赤やピンクの華やいだ色が好きなタイ人に向けて、菓子コースでは日本のコースの内容を踏まえつつカスタマイズを施した。

 特に重視しているのが視覚的な表現だ。

 「タイ人は赤やピンクのビジュアルが大好き(笑)。ピンク色のクリームや赤いイチゴを飾ったケーキなどは大好評です。以前、赴任していた中国では肉じゃがやお好み焼きといった茶色っぽい外見の料理は人気がまったくなくて、ローカライズの重要性を痛感しました。

 ただ、ローカライズしすぎるとABCらしさがなくなってしまうんですよ。現地に合わせすぎると、正直、垢抜けなくなるので、例えば繊細なデコレーションはそのまま活かすなど、譲れない部分は守り抜いています。最近は日本に旅行したことがあるタイ人が増えていて、舌も目も肥えていますから日本水準をキープすることは必須ですね」

 料理を教える過程では、さまざまな道具が登場する。温度計、オーブン、ブレンダー、ハンドミキサー。これらとまったく同じ製品を自分の家にも揃え、料理教室での体験を自分のライフスタイルに取り入れたいというタイ人も急増中だ。

高級調理器具が売れていく

 「教室で使っている道具と同一の製品をほしい、という要望が多数寄せられています。教室では業務用のアルコール消毒液も使っていますが、これも、同じような製品がほかで手に入るにもかかわらず、同じメーカーの同じボトルの同じラベルの消毒液でないとダメだというんですよ(笑)。いま生徒さんたちが購入できるようにメーカーに打診中です」

 機能がいっしょならどのメーカーでもどんなブランドでもいいじゃないか、とは考えない。料理教室に通うタイ人たちにとっては、少々高くついても、料理教室で使っているモノと寸分たがわない製品であることが重要なのだ。

生徒の95%は女性だが、一部男性の姿も。月収3万~5万バーツ(約10万円~17万円)の20代、30代が中心層だ。
生徒の95%は女性だが、一部男性の姿も。月収3万~5万バーツ(約10万円~17万円)の20代、30代が中心層だ。

 「前に、香港のABCクッキングスタジオでも同様の事態が起きました。教室で使っている高価なオーブンを自宅にもほしいという生徒さんが続出したんです」

 生徒たちの熱いニーズは家電品売り場に異変をもたらす。それまで売り場の前面に置かれていた安価なオーブンに代わって、主役に躍り出たのはABCクッキングスタジオで使っている高機能高価格のオーブンだ。生徒は喜び、店もほくほく。タイでもそうなる可能性は大いにある。

 だが、ABCクッキングスタジオがタイで事業を順調に拡大している理由はそれだけではない。

スタジオで実施した「東北フードアンドテイスティングイベント」での一コマ。東北の食材や日本酒の試食会でタイ人の志向を探った。
スタジオで実施した「東北フードアンドテイスティングイベント」での一コマ。東北の食材や日本酒の試食会でタイ人の志向を探った。

 あるときには食に関するマーケティングリサーチの舞台として、あるときには企業のチームビルディング用ワークショップとして、またあるときには輸出振興の情報獲得の場として、企業や自治体からのスタジオ利用が相次いでいるのだ。

 たとえば、宮城県三陸の食材を使った1dayレッスン、福岡のイチゴ・あまおうを取り入れたケーキコース、イクラやネギ、トマトなど東北産の食材を使った料理の試食会。クッキングスタジオでは各社各様のイベントやレシピ開発が進行中だ。

 「スタジオを使えば、タイ人の先生の声も聞けますし、イベント前のリサーチから始まって、消費者となるタイ人のリアルな声を集めることができます。

 いま、タイの市場を開拓しようとたくさんの日本の食品メーカーや自治体が出てきていますが、ピント外れの攻略法も少なくありません。日本食がタイで人気だからうちの食材も売れるだろうと漠然と考えている企業も多いという話を聞きます。『どうしてもこの製品を受け入れてもらいたい』とか『なんとしてでもタイの市場にこの食材を浸透させたい』という一方的な思いが強すぎる。正直、受け入れる側のタイ人の志向やニーズを全然考えていない(笑)。でも、現地化すべきところは現地化しないと、なんとなくではまったく通用しません」

 日本食ブームに沸くタイに出れば成功は間違いないという根拠なき確信は、ポテンシャルのある食材の普及を逆に阻害してしまう。その好例(?)がスーパーマーケットにおける日本の調味料の陳列場所だろう。

チームビルディングに料理を活用!

 味噌やマヨネーズなど日本の調味料の多くは、調味料コーナーではなく日本食コーナーに置かれている。

 「これでは、日本食に興味がない人には利用されません。タイ人の日常の食卓への登場する機会が限られてしまいます。醤油もそうですね。日本人は醤油をいろいろな料理に使っていますが、ほとんどのタイ人は刺し身につける以外の使い方を知らないんです」

 食材の使用頻度を上げるためにはどこに陳列すれば効果的なのか、どんな料理に使ってもらうべきなのか、どのようなレシピを新たに紹介すればいいのか。藤本氏は、ABCクッキングスタジオの戦略的活用を企業に働きかけている。

 チームビルディング(職場内のコミュニケーションの推進や人間関係の構築を図ること)としてのスタジオの利用も始まった。

 「料理を通じてチーム力を向上させるワークショップです。企業内のコミュニケーションというと、日本では飲み会に走りがちですが(笑)、中国ではグローバル企業だけでなく、ローカルも含めて多くの企業が利用に踏み切り、大ブレイクしました。タイでもすでに研修会社と組んで、大手のPTT(タイ最大の企業であるタイ石油公社)などが導入しています」

 限られた時間内で限られた材料を用い、各グループがそれぞれテーマを掲げて料理を作り発表する。料理を通じてチームワークやリーダーシップ、行動力を育成するワークショップは料理教室の新しい可能性かもしれない。

2017年の春にタイ・バンコクで開催された「THAIFEX 2017」
2017年の春にタイ・バンコクで開催された「THAIFEX 2017」

 「コーポレートセールスの仕事は一言で語れないほどやりがいがある」と話す藤本氏はこれまでにも海外のABCクッキングスタジオの新境地を開拓してきた。香港のABCクッキングスタジオでは、開催されたフードエキスポ(食の展示会)のステージ構成から商談ブースやインバウンドブースの設営に至るまで、日本食ブースのコンテンツプロデュースも手掛けている。

 「これまでのイベントでは単発で終わってしまうので次につながらないんですね。せっかくの食材の食べ方や使い方もまったく来場者に伝わっていなかった。そこでうちにやらせてもらいました」

 展示会前にはリサーチを実施し、菓子であればそのパッケージや価格、どういうシーンで食べたいかといった消費者の本音を探って、その内容をブースに反映させた。結果は上々。「次に打つ手が見えてきた」という評価を得た。

「タイ料理を習う」インバウンド需要も狙います

 「まだ体力不足ですが、ノウハウは少しずつたまってきた。いずれはタイ国際食品見本市でもプロデュースを手掛けてみたいですね」

 本業の料理教室に話を戻せば、他国には見られない料理コースもスタートしている。タイ料理のコースだ。

 「他の進出先では自国料理のコースは設けていませんが、タイは外国人観光客が多いですからね。料理を習ってみたいというインバウンド需要が見込めるんです。そのほかにもいろいろ考えていますよ。将来的にはタイの食材を日本のABCクッキングスタジオに輸出する可能性も探っています。ウチはお客さんのリアルな声をどこよりも一番持っていますから」

 敏腕セールスマネージャー・藤本氏の本領発揮はこれからが本番だ。

ABCクッキングスタジオのスタッフが勢揃い。抜群のチームワークでスタジオのさまざまな可能性を開拓している。
ABCクッキングスタジオのスタッフが勢揃い。抜群のチームワークでスタジオのさまざまな可能性を開拓している。
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