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2017/1/13日付毎日新聞論点「「ら抜き」言葉、多数派に」の記事に便乗してことばの規範性の話

 下記の毎日の記事は、複数の立場からの見解を丁寧に載せていて良い記事であると感じました。以前からこの手のことばの規範性の問題については定期的に書き散らしてきましたので、今回も以前の記事の宣伝などしてみます。

 金田一秀穂の見解は、全体としては、日本語(学)の研究者ならこんな感じになるかなあというところでしょうか(偉そう)。
 「ら抜き」に関しては、以前簡単な(断片的な)文献リストを作ったことがあります。作った動機とともに下記に挙げておきます。

 いわゆる「ら抜き」現象が一段系動詞の可能動詞化(と言ったら荒すぎるか)で、合理的な変化だ、という見解は結構色々なところで見かけますし、広く受け入れられている考え方の一つではないかと思うのですが、mixiなどでのやりとりを見ていると意外と出典を明記した論文や記事を参照しながらの議論がなされていることが少ないように見受けられます。
 ということで、「ら抜き」に関する簡単な説明などを行っている書籍や論文をリストにしてみようと思います。
なんかトリビアルな「ら抜き」関係データベース(メモ) - dlit@linguistics - linguistics ?

これらのいずれかを読めば、金田一氏の見解が日本語の研究ではちょくちょく言われてきたものであることが確認できるでしょう。
 ちなみに、この文献リストは2009年に書いた記事ですが、webで「ら抜き」に言及がある場合に文献の参照が少ないという印象は今でもあまり変わっていません。また、このリストは作成した直後ぐらいからぜんぜん更新していませんので、今はもっと関連文献が増えていると思われます。

過去記事の紹介

 私自身が考えていること、言いたいことについては過去の記事にいろいろ書いてきましたので、いくつか引用とともに紹介します。
 まずは同じ「ら抜き」を取り上げた朝日天声人語の批判から。

個人がある言語体系・言語表現に対して特別な価値を持たせること、それが少数派になる事態に対して不快感や寂しさを感じること、そしてそれらを表明すること、は自然な行為だと思います。僕もそのうちやりたくなるかもしれません。しかし、それは他の体系や表現を攻撃したり、貶めたりすることとは独立にできるのではないでしょうか。
2011/10/23日(日)付朝日新聞天声人語「ら抜き」の記事に文句を付ける - 思索の海

 ことばについて(も)好き嫌いと正誤は区別した方がよい、というのはたとえば下記の「まなざす」についての記事でも取り上げました。

ある語・表現が嫌いなら「嫌い」と言う・表明することもおかしなことではありません。しかし、「嫌い」「気持ち悪い」から「日本語としておかしい」「日本語ではない」と言ってしまうのは、ずいぶんな飛躍に感じます。
動詞「まなざす」は“日本語として”おかしいか - 思索の海

「正しい○○語」と言語学の研究者

 さて、毎日の記事にある金田一氏の発言として「そもそも「正しい日本語」など存在しない。」とあります。このような言い方は言語学や日本語学の研究者の見解として聞いたことがあるのではないでしょうか。
 ここでは、せっかくなのでもう少し詳しい言い方、見方を紹介します*1。それは

  • ことばそのものの性質として「正しさ」というものはないが、「正しいことば」とされるものはあり、それは誰かが決めている。

というものです。ここで「誰か」に入るのは、国だったり研究者だったり教員だったり何かの分野で有名な人だったり一般の人だったりします。具体的には法律とか辞書とか接客マニュアルといった形で私たちの身の周りにあります。
 言語学や日本語の研究の専門家も、実際には規範の形成や維持に関与することはあります。歴史的には標準語の制定などが有名ですが、実際には緩く作成されている常用漢字や仮名遣い等に関するルールが厳しい規則として理解されることがあるといったことも規範の形成・維持にとっては大きいですね。

あと、身近なところでは辞書も実際には規範として機能することがあります。「辞書に載ってるから△△という表現は正しいんだ」という言い方、聞いたことがありませんか。
 辞書については、『船を編む』辺りからの辞書ブーム(?)の流れもあるのでしょうか、サンキュータツオさんの

学校では教えてくれない! 国語辞典の遊び方

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や飯間浩明氏の活動によって、辞書にもいろいろな性格のものがあること、ことばの変化にかなり柔軟に対応する辞書もあることが一般的にも知られてきたと感じます。いい傾向ですね。
 また、言語学や日本語学の研究者がことばに対する価値判断をしないわけではないということにも注意が必要です。「動詞の屈折のパラダイムが複雑で素敵」とかだと「クマムシの爪の形が美しい」*2といった研究者によく見られる研究対象への愛情の発露として受け止めていただければよいと思うのですが、時々「さいきん新しく出てきた××という表現はけしからん」的なことを言ったり書いたりする人もいて同業者としてはちょっと困ります。こういうのも権威として規範の形成・維持に寄与しちゃうと思うのですけれどねえ。そういう物言いに出会ったら、ぜひその人自身の個人的な思い*3として受け止めて(あるいはスルーして)ほしいと考えています。ちなみに言語学・日本語学の研究者からときどき聞かれる価値判断に関する表現で個人的に好きではないのは「きれいな方言(が残ってる)」てやつですね。いや言いたくなる気持ちもわかるのですが。

追記(2017/01/14)

 ちなみに、言語学の研究者が「ことばの正しさは決められないよ」と言う背景には、言語学の方法論で言語の内在的な性質として「正しさ」を見つけたり比較したり出来ないという方法論的な限界についての話と、専門家の発言は権威として機能してしまうので価値判断(の表明)については慎重でなければならないという倫理的戒めのような側面があるのだと理解しています。「価値判断については中立です」という発言自体も他者の価値判断に影響を及ぼしてしまうことはありますし、一種政治的であることには注意が必要なのではないかというのが私の考えです。

おわりに

 なんで私がこの手の問題についてしつこく書くかというと、ことばを使ってコミュニケーションすることを含めて、ことばと付きあう、ことばを使うってほんとに難しいんですね。その難しさをふまえてある程度は付き合わなきゃならないところがことばの大変さなのですが、(特に他者の)ことばについて寛容な人が増えると、少しはその難しさ、大変さも減るんじゃないかなあ、という勝手な期待があるからなのです。
 永井愛氏が触れている過剰敬語(等と呼ばれるもの)についても気になることはあるのですが、長くなりましたし力尽きたのでこの辺りでこの記事は終わりにしたいと思います。

*1:ただこの見解は言語学・日本語学の研究者の一般的な見解と言える自信はありませんのでご注意下さい。

*2:かわけ!クマムシのように。:理系クンと思想クン - クマムシ博士のむしブロ

*3:つまり、言語学や日本語学の研究の方法論を用いて直接導き出せる結論ではないということです。