【無料記事/島崎英純】日々雑感ー『浦和の選手』ー鈴木啓太(2015/10/21)

新人だった啓太が語った言葉

鈴木啓太のことについては昨年末に様々なことを記した(https://www1.targma.jp/urakenplus/2014/12/03/post10834/)※無料記事。

私がこの仕事を始めたのは2001年の夏で、彼は私が初めて取材現場で意を決して話を聞いた選手だった。当時の啓太はプロ2年目。浦和レッズの指揮官だったチッタ監督からは信頼を得られず、高い技術も備えていなければ、屈強なフィジカルも驚愕のスピードも有していないMFで、その将来はそれほど嘱望されていなかったと思う。だが、これは自画自賛だが、私にとっては琴線に触れる選手だった。それは何より彼が聡明で、ひたむきな意味で野心的なプロサッカープレーヤーだったからだ。

福田正博さんが現役引退後に私に語った言葉が今でも心に残っている。

「当時新人だった啓太が俺に言ったんだ。『僕は日本代表になります』って。その時の啓太は代表どころか、レッズでベンチ入りすらできない立場で、毎週サテライトのゲームに出場しているような選手だった。(小野)伸二や(田中)達也のように新人から目立っていたような選手でもない。だから、『コイツ、何言ってるんだろう?』って思ったよ。でもアイツは結局その後に日本代表のキャプテンまで務めた。周りの誰もが懐疑的な視線を向ける中、アイツだけは自分を信じて疑わなかったんだと思う。今思うのは、それだけ鈴木啓太という男は揺るぎない信念を持ち続けていた選手だということ。素直に凄い奴だなと思ったよ」

表の啓太はどこまでも野心的だった。しかし私は啓太の裏の苦悩も知っている。高い信念を備え、真っ直ぐに歩みを進める過程では並大抵の努力では克服できない困難があったことを知っている。全く注目を浴びない一介の選手からハンス・オフトに見出されて浦和でポジションを獲得した黎明期、2004年のアテネオリンピツク・アジア最終予選での激闘と歓喜、そして本大会メンバーからの落選。ギド・ブッフバルト政権時には日本代表クラスが居並ぶ中で堂々とセントラルミッドフィールダーのレギュラーに君臨してクラブ初のリーグ制覇を果たした。ホルガー・オジェック体制時にはリーグ連覇こそ逃したものの、アジア・チャンピオンズリーグを制して山田暢久キャプテンが欠場した代わりに優勝カップを天に掲げた。そしてオフトに並ぶ「恩師」であるイビチャ・オシムとの出会い、日本代表選出、キャプテンとしてチームを率い、確固たる地位を築き上げた最中に襲われた扁桃炎……。フォルカー・フィンケ体制時に一度は考えた現役からの引退。ゼリコ・ペトロヴィッチ監督体制時はJ1残留のために死力を尽くし、その責任を果たした瞬間に涙で頬を濡らした。そしてミハイロ・ペトロヴィッチには、再び自らの尊厳とプロとしての価値を見出され、チームに尽力してひとつの目的に突き進む尊さを学んだ。

プロサッカー選手としての矜持

10代後半から20代前半までの啓太に、キャプテンの佇まいはなかった(五輪予選代表のキャプテンを務めても、私はそう思わなかった)。当時はチームを束ねることよりも自らのアイデンティティを確立させることに注力していたように思うし、極論すれば周囲を慮る余裕もなかった。必死に喰らいつかなければ淘汰されてしまう弱肉強食の世界であることを、彼は十分に認識していたように思うのだ。しかし20代後半から現在の啓太は全く異なる印象を醸す選手になった。チームの一員として戦う姿勢に変化はないが、その価値を尊ぶようになった。私は野心を隠さずに雄弁に語る啓太も好きだが、思慮深く団結を重んじる今の啓太も好きだ。

存在価値を高める。チームに尽くす。その目的に違いこそあれど、啓太が一貫して貫いてきたプロサッカー選手としての矜持がある。彼はこれまで、いつの時代もチームを率いる指揮官に従事し、その役割を果たしてきた。その際に、私は彼から監督やチームメイトに対する不満をほとんど聞いたことがない。全く愚痴を聞いたことがないと言ったら嘘になる。アテネへの道を閉ざされた時にはさすがに落ち込んだし、チームがJ2降格の危機に瀕した際は自らの責任を痛感しながらも組織の成り立ちに懐疑的になっていたこともある。しかし彼は自らの生きる道を十分に理解していた。それは時の指揮官のリクエストに答え、信頼を得ること。そのために彼は、他の選手とは異なるアプローチで血の滲むような努力を重ねてきた。

啓太のプレーや言動を振り返ると、私の心は常に時の指揮官とセットでフィードバックされる。オフトは若造の啓太が縦横無尽に中盤を駆けた際、「なんでお前へそんなに落ち着きがないんだ? お前は良いボランチとはどういうものかを勘違いしている。本当に良いボランチというものは、常に頭で考え、最小限の動きで全てを果たす選手を指すんだ」と諭した。スポンジのような彼は、そこから劇的にプレーの幅を広げてステップアップを果たした。ギドは、並み居るスター選手の脇に必ず啓太を置いた。日本代表クラスの選手が激しいスタメン争いを繰り広げる中で常にレギュラーとしてピッチに立ち続けた。この頃から啓太はチームの黒子役として認識され、存在価値を高めていく。そして日本代表のオシムが「彼は水を運ぶ選手」という有名な言葉を残し、プレースタイルが確立された。

しかし、ステレオタイプな評価を最も受け入れていなかったのは啓太自身だったのかもしれない。ストイックに頂点を目指し、自らの商品価値を高めるために邁進していた時代を許容しつつ、2012シーズンにミシャが浦和の監督となり、新たな役割を与えられた彼は嬉々とした表情で私にこう話している。

「せっかくこのような舞台でサッカーをさせてもらっているのだから、その舞台を楽しまなくちゃ。この舞台に立たせてもらっている人間が楽しんでサッカーをしていないというのは損だし、何より応援してくれるファンやサポーターに申し訳が立たないと思う。それは、この舞台を目指している子どもたちに対しても。同じ時間を過ごすならば、僕は今生きている場を有意義に過ごしたい。正直な話、僕のキャリアの中でも今が一番楽しいし、充実している。もちろんプレッシャーと戦う、勝利を目指すための努力、それを成し遂げることの楽しさもあるけど、それ以上に今は、少年時代に静岡で過ごしていた頃と同じような楽しさをサッカーから感じている。陽が暮れるまでサッカーボールを蹴っていた時代の思いに、また戻ってきた感覚がある。今は現役生活を終えてから『もっとサッカーを楽しめば良かったな』と後悔しなくて済むと思っている。それくらい、今が充実しているから」

彼はクラブのため、チームのため、サポーターのために闘ってきた

だからこそ、2014年の途中に突如襲った身体の不調は辛かった。扁桃炎を患った時も11キロ近く体重が落ちるなど、これまでの現役生活で健康面の不安を抱えた事は何度かある。しかし昨年の場合は心身共に充実の時を過ごしきた最中に起きた予想外の体調不良で、そのダメージは大きかった。2014年11月3日のJリーグ第31節、優勝にひた走る時期だった日産スタジアムの横浜F・マリノス戦で不整脈の症状を訴えてハーフタイムに途中交代。2014年11月15日、国際Aマッチデーの影響でリーグが中断した時期に実施された川崎フロンターレとの練習試合で、彼はセカンドチームのボランチポジションで先発したものの、わずか10数分でプレーをやめてしまう。以前書いた原稿にもある通り、当時の私は啓太に話を聞けるような立場になかった。そして今でも、彼の心情は外からうかがい知ることしかできない。しかしミシャの元であれだけ充実感を抱き、少年のように目を輝かせていた彼が背負った辛苦を思うと、これ以上言葉を紡ぐことなどできない。

今季の啓太はJリーグで1stステージ3試合出場、2ndステージ1試合出場で、リーグ戦では全て途中出場、両ステージ合計で僅か97分しかプレーしていない。依然不整脈の不安を抱え、投薬治療を続けている。

しかし彼が今季先発したゲームも3試合ある。それはアジア・チャンピオンズリーグ・グループリーグのブリスベン・ロアー戦2試合と北京国安とのアウェー戦である。中でも私には、すでにグループリーグ敗退が決まっている状況で行われたブリスベンとのアウェー戦が思い出深い。このゲームでは啓太が久しぶりにキャプテンマークを巻いてチームメイトを引き連れていた。そして79分に小島秀仁と交代するまで、彼はミシャの掲げるチームスタイルを体現し、興梠慎三の先制点に繋げる必殺のスルーパスも通した。試合後、キャプテンとして監督と共に試合後記者会見に臨んだ彼は、敢然とした表情でこう語っている。「これでACLが終わってしまうのが残念でならない。何故我々がグループリーグで敗退してしまったのか。反省もありますが、僕は、このチームはここで終わってしまうようなチームではないと思っています」

啓太にとって、ミシャと仲間と共に戦うチームはかけがえのない存在となった。そして今、彼はこのクラブ、チームに想いを馳せる。10月21日の練習後、報道陣に囲まれた啓太が話した。

「自分が決断したことなので、自分の口から16年間お世話になったサポーターに伝えたかった。体調面でトップコンディションを維持できず、今シーズンに入る前から『今年で最後』という思いでやってきた。僕自身が発表させてもらったことが今話せるすべてです。残りリーグ3試合、チャンピオンシップ、天皇杯があるので、集中するためにもこのタイミングで発表しました。チームメイトには、その前に伝えた。このことでチームが変わることはないです。今はタイトルを取らなきゃいけないと思っています。優勝できるのであれば、もしサッカーができなくなっても喜んでこの身体を差し出します。ただ自分は、このクラブしか知らない。その中で選手として離れることを決めなければならなかった。その踏ん切りは難しかったです。レッズというクラブで戦うためには100%じゃなきゃいけない。レッズはトップを争うチーム。アジアで戦うチームなので、トップコンディションでプレーできないのはチームのためにならない。今の僕はレッズの選手として戦うレベルではない。フィジカル的な問題が、この決断に至った理由です。選手としては、いろいろな思いがあります。悔しい気持ちもある。でも、その悔しい気持ちを受け入れて、今はチームが勝つために何ができるかを考えている」

啓太は浦和レッズがどんな存在なのかを理解している。自らの力を還元できなければ、その座を辞さねばならないことを理解している。決断は断腸の思いだったろうが、それでも意思は揺るぎないだろう。それだけ彼はクラブのため、チームのため、サポーターのために闘ってきた。

彼がかつて言った言葉が蘇ってきた。山本昌邦監督の構想から外れ、アテネ行きを閉ざされた後にヤマザキナビスコカップ・グループリーグ第5節・ジェフユナイテッド市原(現・ジェフ千葉)戦を戦った後に言った彼の言葉だ。前回の原稿でも記したが、今一度、彼の心情を受け止めたい。

「そりゃあ、代表に落選したのはショックだったよ。でも、だからって落ち込んでそれをプレーに反映させちゃダメでしょ。僕ら選手は、いかにピッチでその姿勢を見せるかに懸かっているんだから。だから直後のナビスコカップはかなり本気を出したよ(笑)。でも、そこで浦和レッズサポーターの大声援を浴びてこう思った。『そうだ、俺には浦和という居場所があるんだ』って」

浦和で過ごした16年間は彼の勲章だ。そして、その月日を共に過ごした浦和レッズサポーターも、彼にとってかけがえのない存在である。

「浦和サポーター? 僕の人生そのもの。良い時も悪い時も、傍に居てくれた同志、仲間だと思ってるよ」

今の鈴木啓太は変わらず浦和と共にある。リーグ戦は残り3試合。天皇杯、そしてチャンピオシップがある。浦和の選手として闘う彼の姿を、私はこの目に焼き付けたい。

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