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「正義の国・日本!」―満州事変から大東亜戦争まで【1】(全3回)

文/幸福実現党・茨城県副代表 中村幸樹

◆満州事変と満州国建国の経緯

コミンテルン(共産主義インターナショナル)にそそのかされた反日侮日運動が過激化し、張学良軍、馬賊、匪賊による、誘拐、略奪、恐喝が横行する満州で、1931年9月18日、一万数千人の関東軍は、30万とも45万ともいわれた張学良軍を追放しました。(満州事変)

政府や陸軍中央も知らないところで起きたのは問題であり、政治的リーダーシップの欠如(幣原外交)や明治憲法の欠陥(統帥権干犯問題)等、改善すべき点はあったにせよ、日本人居留民に危害が及ぶ危機的状況を、自衛のためにも解決せざるを得なかったというのが、満州事変の真相でした。

翌1932年3月、関東軍の主導で、清朝最後の皇帝溥儀(フギ)をトップに迎えて、満州国を建国しました。大臣たちは全員、満州人か清朝の忠臣としました。

1911年の辛亥革命で、満州族王朝清から、漢民族(シナ人)が独立し、日本公使館に逃げ込んだ溥儀の、切なる希望が満州国でした。満州国は、民族自決という観点からも理にかなっていたのです。

漢民族と満州民族は別の民族であり、万里の長城以北は、シナ固有の領土とは言えません。

シナを支配したことがある民族の故郷はシナの領土だと言うなら、インドを支配したことがあるイギリスは、インドの領土だという論理になるからです。

満州国は、「五属共和」(満州民族、漢民族、蒙古民族、朝鮮民族、日本民族の共存共栄)を建国の精神として、安定した治安、安心できる生産活動、商業活動を提供し、奇跡と言えるほど発展しました。

塗炭の苦しみに喘いでいた不法の土地、満州は、自動車や飛行機まで作ることができる一大近代国家、桃源郷へと変貌を遂げたのです。

◆満州事変と満州国建国は、日本の侵略ではない

もし、満州事変が侵略なら、例えば、チベットやウイグルをアメリカ軍が独立に導き、トップも大臣もすべてチベット人やウイグル人にし、実務は手伝って近代化を促し、人々があこがれる、安全で繁栄した理想的な国家ができたとしても、アメリカはチベットやウイグルに侵略したことになります。

この場合、アメリカ軍は、チベット人やウイグル人の夢である独立を支援し、繁栄と幸福をもたらしたと言うべきであって、侵略と呼ぶべきではありません。

満州事変と満州国建国は、人々に幸福をもたらした正当な行為であり、日本の侵略ではないのです。

◆日中戦争(支那事変)の経緯(1)――[盧溝橋事件]

1937年7月7日、「盧溝橋事件」は、蒋介石の国民政府軍に潜り込んだ中国共産党軍のスパイが、日本軍と国民政府軍の衝突を作り出し、「漁夫の利」を得るために発砲したことから始まりました。

それでも日本軍は攻撃せず、7月11日に事態収拾のための現地協定を成立させましたが、共産党スパイが繰り返す発砲に勘違いした国民政府軍が攻撃してきて、日本軍は「巻き込まれた」というのが真相です。

◆日中戦争の経緯(2)――[通州事件]

日本の不拡大方針が堅持される中、国民政府が一転して対日交戦を決定、7月29日には「通州事件」が起き、200人以上の日本人が、人間とは思えない方法で惨殺されました。

この報は日本にも伝わり、日本国民の怒りは頂点に達しました。

◆日中戦争の経緯(3)――[第二次上海事変]

盧溝橋で始まった事変は、北支事変として収束に向かいましたが、本格的な「支那事変」は1937年8月13日、上海地区における中国側の攻撃に始まりました。

日本の海軍陸戦隊約4千人が、軽武装で日本人居留民を守っているところに、コミンテルンの手先、張治中(チョウジチュウ)将軍が、約5万の大軍で攻撃してきました。

翌8月14日、蒋介石軍は、アメリカから提供された戦闘機で、シナ人を中心とする民間人がいるホテルや避難所を攻撃して、3600名余りを死傷させ、「キリスト教の中国が、異教の日本に蹂躙されている」イメージの情報戦を展開しました。

日本は通州事件のような惨劇を繰り返さないために、陸軍を派遣しましたが、蒋介石が招いたドイツのゼークト大将(防御陣地造りの権威)による作戦で、日本軍は約4万もの大損害が出ました。

その後、南京攻略への上陸作戦で、上海の背後を衝く形をとったことで、中国軍は総くずれになりました。

(つづく)

中村こうき

執筆者:中村こうき

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