「自宅死増加政策」の落とし穴 | 中下大樹のブログ

「自宅死増加政策」の落とし穴

「自宅死増加政策」の落とし穴  色平哲郎先生

大阪保険医雑誌 05年10月号

私の村では枕辺に集まった家族に見送られて黄泉へと旅立つことが「大往生」として、いまも根づいている。


これを可能にしているのは、家族や近隣の人間関係が「互助の網」として機能しているうえに医療提供者と患者の家族の間に「あうんの呼吸」とでも呼ぶしかない「看取りの作法」が一種の文化として連綿と受け継がれてきたからだ。
...
「そろそろ、ですね」

「よろしくお願いします。じいちゃんも帰りたがっています」

そんなやりとりが交わされるまでもなく、あうんの呼吸で、看取りという人生の大団円に向かってドラマがひっそりと展開される。


大都市の高層マンションなどと違い、持ち家が多く、終末期ケアから事後の葬送まで物理的に対応可能な住環境も見逃せない。


たまたま都市化の波が及ばなかったからこそ、自宅で看取る文化が残った。


人が人を見送る無償の行為は、過疎化、超高齢化という悲哀の代償といえるだろう。

いずれにしても、誰かの作為的なコントロールで村の大往生が成り立っているわけではない。


村人が、それを選んでいるのである。

7月29日付の「毎日新聞」にギョッとするような記事が掲載された。以下、引用する。

『厚生労働省は28日の自民党社会保障制度調査会医療委員会で、自宅や介護施設で死亡する人(02年度は全死亡者の18%)の割合を4割に引き上げることで、2015年度の医療給付費を約2000億円、25年度には約5000億円削減できるとの試算を示した。


政府の経済財政諮問会議は、給付費の伸びを経済成長率内に抑える「キャップ制」導入を主張しているが、同省は終末期医療の見直し、平均入院日数減などによる給付抑制効果を指標化して対応したいとしている。


02年度の年間死亡者数約98万人のうち、約80万人は入院先で死亡した。


死亡前一ヶ月の終末期医療費は一人平均112万円(うち入院医療費約41万円)で、総計は約9000億円。


今後、年間死亡者数は毎年2万人ペースで増える見通し』

つまり、公的医療費を抑えるために患者さんをどんどん自宅や介護施設に戻そう、との方針が打ち出されたのだ。


それを後押しする施策として、医師、看護師、薬剤師などの医療関係者とケアマネジャー、 介護スタッフが連携する「在宅チーム医療」の体制づくりも掲げられた。


具体的には、終末期の患者が「安心して退院」できるようにするために、入院先の医療担当者と地域の医療・介護スタッフで「診療計画(連携パス)」を作って対応することに対して報酬面で優遇しようというもの。

厚労省は、早ければ、来年春の診療報酬・介護報酬の同時見直しで「地域連携パス加算」(仮称)を盛り込みたいとしている。


診療報酬改定に合わせた政策誘導は厚労省の十八番。


診療報酬改定だけでは「机上の計算に過ぎない」と批判を浴びるためか、ケアハウス(軽費老人ホーム)
や少人数のグループホーム、小規模な多機能型施設に医療スタッフが出向く仕組みや、特別養護老人ホームで訪問看護が受けられる制度変更も検討しているようだ。

確かに終末期「あそこまでする必要があるのか」と疑問が生じるような延命治療が行われているのは事実。


「医学的適応」「患者の意向」「クォリティ・オブ・ライフ」「周囲の状況」などの観点から終末期ケアのあり方は、もっと国民的に議論されていいだろう。

厚労省調査では一般国民の62%が「住み慣れた場所で最期を迎えたい」と答えている。

しかしながら、この調査結果は、回答の裏に「できることなら」という心理的留保があってのことだ。


多くの人が「できることなら」自宅や介護施設で親しい人に看取られたいと願っている。

だが、家族の介護負担の増大や緊急時の不安から、在宅医療を選べない。


介護現場は常にマンパワー不足に喘いでいる。

そういう状況を放置したまま、診療報酬だけで死に場所を操作しようとしたら、とんでもない事態が起こるだろう。


医師の立場からすれば、ざっと次のような点が懸念される。

・第一に病院か自宅かは、患者さん本人や家族の判断に委ねられるべきものであり、あえて医師が自宅や介護施設を薦める場合、何が、どのような価値観がその根拠となるのか。


まさか「公的医療費の抑制」などとは口が避けても言えない。

・患者さんの入院先の病院で治療に当っている者と、地域の開業医、看護師、介護施設などの間で情報が分断されている。


患者さんを自宅や地域の介護施設に帰すには、治療に関する情報だけでなく、その人の家庭環境や生活背景に関する情報が共有されていなければ判断の下しようがない。


人を介する情報の連携をどうやってとるのか。

・自宅や介護施設で患者さんの容態が急変した場合の対応が用意されているか。

・末期のガン患者の在宅ケアなどは介護者に多大な負担を強いるが、そのためのハード、ソフト両面での準備はどうするのか。


介護に起因する腰痛など二次疾病のリスクが高まる。

・自宅や介護施設での死亡診断手続きが勤務医には周知されておらず、手続きの齟齬から法的に責任を問われるケースが続出するのではないか。

と、考え始めたら次々と問題点が浮上する。

治療を受ける側から、友人のジャーナリストは次のように言う。

「公的医療費の抑制は、常に民間企業の医療市場参入と抱き合わせになっています。公が退けば、そこを基点に民間のパイを2倍、3倍に増やそうとする。経済財政諮問会議など、人間が経済的合理性、つまり損得だけで生きていると信じている人たちは、終末期に病院か、自宅かの選択を単純に経済性で割り切ろうとするでしょう。


お金のある人は、病院、ない人は自宅や介護施設へ。


病院にかかりたければ、民間の医療保険などに加入し、せっせと保険料を払っておけばいいとなる。


混合診療の全面解禁や株式会社病院につながる命の選別が、とうとう終末期ケアで頭をもたげてきたのでしょう」

村でなぜ大往生が可能なのか、大都会で暮らす官僚たちは胸に手を当てて考えてほしい。