「亡き人を案ずる私が 亡き人から案じられている」故人様の願いに想いを馳せる。 | 伊丹のおくりびと

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伊丹市の幸せ創造企業 速水葬祭二代目創業者 速水英城です。
色んな所で様々な人々に支えられご縁を頂き毎日を過ごしています。
感謝を込めて綴ります。

お通夜やお葬式に参列する時って

何をしに行っているんでしょう?

おつかれさまです、速水です。




とあるご法話をご紹介させて頂きます。




記事タイトル

「亡き人を案ずる私が亡き人から案じられている」

と書きました。



大きな意味で言うと

亡き人の願いに耳(心)を傾けてみる」事だと思います。



お悔やみの場にお参りする時は

普通は「亡き人の冥福を祈って」居られると思います。



また大切な方を亡くされた時の哀しみは推し計る事ができない大きな哀しみだと思います。



しかしそのご法話で

その心は全て【私】が中心に有って私の想いでしかなんだと。

亡き人の事を思ってそこに居るはずなのに

私の事が前に出ていて良いのでしょうか?

それよりも【故人様が何を願っているのか?】を

考えてみる事が大切なのではないでしょうか?」


と頂きました。




亡くなった方とはお話しができませんが

「故人ならこう言うだろうな、こう言ってくれるだろうな、

こう願ってくれてるだろうな」と考えると如何でしょう?




亡き人

「旅立つ自分の事を心配して欲しい、

私の死を悲しんで欲しい、

私の成仏を強く願って欲しい

なんて思って居られるでしょうか?



僕自身も両親を送らせて頂きました

お浄土の両親の願いを考えてみると

きっと両親なら僕たちのを案じてくれていると思います。

「身体を大切にし~や、

病気したらしんどいのは自分自身もやけど

家族に心配かけんようにあんじょうし~や」

「家族笑顔で暮らせるように仲良くし~や」

普段お世話になっている人らを大切にし~や」

そう言ってくれている両親の顔が浮かびます。



生きている僕たちはお互いを心配をする事もできるし

声をかけあう事もアドバイスをしあう事もできますが

お浄土に行かれた人は、もう声をかける事も

直接導く事もできないですよね。



しかし僕達は亡くなった人たち願いに

耳(心)を傾ける事はできます。





亡き人の願いはひとつ

「しっかりと生きて欲しい」

だと思います。



お浄土に行かれた多くの先人の願いを頂きながら

生きさせて頂いている事に対する

感謝の心を大切にしたいと思います。






それは両親でしょうか、祖父母でしょうか、

よく遊んでくれた叔父さんや叔母さんでしょうか、

あるいは配偶者や子どもかもしれません



お浄土に往くその時まで

活き活きと生きて行きたいと思います。


大切な人からの願いに活かされている事に感謝。

合掌。