皆さん、こんにちは。大津です。


緩和ケアのじゅもん。
唱えてくださっていますか?
↓↓
こちらです

「この方は今、何を望んでいるのだろうか?」

「できることは必ずあるはず」

「この方には、この方自身には、何が最良なのか?」


さて、告知についてです。

告知をしないデメリットはたくさんありますが、
終末期をよく診ている私として思うのは、
いつか患者さんは自らの身体で自分の病状の
重さを知るに至り、不安と疑念にかられる、
そして周囲に「どうして悪くなるんだ?」と
尋ねて来る時が訪れるわけですが、その時に
ご家族や医療者が大層辛い思いをするという
ことが挙げられます。

もちろん自己決定権を尊重し、自分の人生の
ことはやはり自らが主になって決めてゆくのが
(通常考えれば多くの方にとって)良いであろう
という観点からも、ご本人にとっては大きな
不利益なのですが、私が思うにご家族の大変さ
やデメリットも相当なものなのではないかと思います。

その双方が背負う、しかものちになるほど辛く
なる経過から考えても、私は基本的に告知は
したほうが良いと考えています。

実際最後まで嘘をつき通すというのは非常に
大変なことです。状態が悪くなり、患者さんの
疑念が深まり、周囲に「どうして?」「なぜ?」
と強く何回も尋ねるようになる時、「やはり
伝えたほうが良いのか」とご家族も気が付かれます。

しかしそのような時は残り時間が少なくなって
来ている可能性があるわけです。あまり動けない
人に「余命1カ月」などと伝えることがどれだけ
酷か・・と考えると、基本的には(そのような
状態下においては)言わないほうが良いとなる
でしょう。

こういう状況を「告知の時期を逸した」
と呼べると思います。その前に動けば、こう
ならないで済むことは言うまでもありません。


私自身は告知原理主義者ではありません。

例えば認知症の高齢者に、せん妄の方に、
全員が全員、病状から治療方針、はては余命まで
伝える「べき」などとは全く思っておりません。
(余談ですが、私が”緩和医療医”なので<?>
勝手にそのような話を本人にされてしまうのでは
ないかと恐れていたご家族も過去いらっしゃるの
ですがそんなことは全くありません。むしろ緩和
医療医はそういう対応の真逆に位置するでしょう)
あくまで第一は「患者さんの希望」ということに
なるでしょう。

ただ先に書いたような理由で、基本的には病気の
名前、選んだ治療などは伝えたほうが皆さんの
メリットは大きいものと考えておりますし、
だいたいの場合はその方の望むだけの情報は
伝えたほうが良いと考えています。

さらに言えば
もう告知をするかしないか、という全か無かの
時代は私は古いと思います。

21世紀にふさわしい告知は
「何をどれだけ伝えるか」
に配慮して質の高い告知を行い、そして
「その後をどう支えるか」
という事後に出て来るお気持ちをどのように
皆で支えてゆくのか、その2点を重視した
「やりっぱ(やりっぱなし)告知ではない」
むしろ患者さんに残された時間をよりよく
生きてもらうための
「戦略的告知」が必要な時代だと思っております。

伝えないで希望をつくるのではなく
上手に生きる希望を引き出すような告知を行う
時代に移行すべきです。

「伝えて希望をつくる」時代へ、です。


もちろんことはそんなに簡単ではありません。

人の気持ちは、他人には完全にはわかりません。
そしてまた気持ちは同じ人間でも移り変わります。
昨日は聞きたかったが、今日はイヤ、そんなこと
がざらにあるのが、現場です。それはしごく
当り前のことです。

だから私たちはやはり本人に「何をどれだけ
聞きたいか」を尋ねねばなりません。
「もし悪い話があっても聞きたいか、聞きたく
ないか」をご本人に聞かねばなりません。

それなしに医療者主導で勝手に伝える。
とにかくもう全部言ってしまう。あるいは
ご家族の希望で言わない。何も言わない。
これはもう「あかん」と思います。


本日インターネットでこういう記事を
見つけました。
↓↓
こちらです

(一部引用します)

 「最近の先生は何でも患者に言ってしまう」という、ため息まじりの言葉を深刻な診断を受けた患者やその家族からよく聞きます。がんなどの難しい病気について、告知をすることが最近では当たり前になってきました。

 病によって、その患者の人生は左右されます。誰もその人の生き方や思いを代わることはできませんし、病を持ちながらどのように生きていくのかは、その患者自身が決めるべき問題です。しかし、「何でも言ってしまう」という患者や家族の当惑に、医療者はもう少し注意が必要ではないでしょうか。

 「悪いニュース」の伝え方を医療者は一生懸命学ぶ努力をしていますが、「患者に……をしてあげる」というように、焦点が医療者側にある話し方は、患者や家族が受け入れにくいといえます。「悪いニュース」を伝える留意点は、患者に焦点を当てた勇気付けです。

 私の父の病状が厳しくなった時、ある医師に父の画像資料を見せました。その医師は「お父さんは何が好き? 好きなことを思い切りなさるといいね」と話しました。それを聞いた私は、「最後通牒(つうちょう)だ」と落ち込みました。しかし、その医師は穏やかにほほ笑みながら、こう続けました。

 「私は人の命を区切ることはしません。確かに、この資料を見ると、あと3カ月くらいですが、私たち医師が、知識とデータ、経験に基づいて出す判断に過ぎません。実際は、同じ状況でその判断よりもはるかに長生きされる方もいて、『絶対』ということは誰にも言えません。好きなことを思う存分楽しむことで、患者である自分ではなく、一人の人間としての自分を大切にすると、頑張る力が出ることもあります。人間が持つ力は大きいですよ」

(引用終わり)

上記を書かれた岡本左和子さんのお父さんの
先生、本当に素敵な先生ですね。

私自身も推定余命など吹き飛ばすかのように
長い時間を生きられた(あるいは生きてらっしゃる)
方をたくさん見て来ています。

しかし彼らに「あなたの余命は3ヶ月です」と
言い放っていたら、もしかしたら経過は違って
いたかもしれません。「できることはありません」と
言っていたら、そうならなかったかもしれません。

「先を完全に予測することは難しいこと」

「けれどもやるべきことをやっておくことは
重要であること」

「終わりがないかのように生きている方の
姿は生き生きとされていて、実際に長生き
しているような例がしばしばあること」

それを伝えて、望むように生きてもらうのが
私の告知です。多分いろいろな方法があるかと
思います。もちろん絶対的な正解はありません。

ただ引用文で岡本左和子さんが書いてらっしゃる
ように「患者に焦点を当てて」、つまり
緩和ケアの3つの呪文に即した告知ならば、つまり

「この方は今、何を望んでいるのだろうか?」

「できることは必ずあるはず」

「この方には、この方自身には、何が最良なのか?」

を十分唱えて反芻し、そのうえでの告知であったら
私は基本線を大きく外すことはないと思います。



外来でいきなり
「あなたの余命は半年です」
と言い放つ。

「なんでこういうお歳の人を連れて来たの?」
と90代現役画家に言い放った病院。

類する話は山ほどあります。
嘆かわしい話です。


一方で、多くを伝えられながらも

「先生の患者さんの中で、無治療で
(※抗がん剤治療はもう不可能でした)
もっとも長く生きたという記録を作るんだ」

と笑顔で外来に通われていたMさん。

最長の記録は作れませんでしたが、
しかし彼女は私の「記憶」の中でいつも
あの素晴らしい笑顔で輝いています。
「記録」よりそれはずっとずっと
燦然と輝いているのです。


まるで終わりがないかのように、終末期に
なっても人のために生き続けたKさん。

彼は私の予想の1ヵ月を10数倍に延ばして
生きて、たくさんの人を笑顔でいっぱいに
しました。人を救える力をもった彼を
天はそう簡単には逝かさなかったのです。


医療者は病気を治すことが仕事ですが、
「人にハッピーになってもらうこと」も
大切な仕事であります。そして
「その方が本来持っている生きる力を引き出すこと」
が重要な使命です。

どうか告知においても
「生きる力を引き出す」告知をしてください。

もちろん伝えられた
その時は衝撃が患者さんを覆います。
けれども告知は点ではありません。
そこから何ヶ月か、あるいは患者さんが
いよいよ死の床についた時に、
「やはり言ってもらってよかった」と
感じてもらうことができれば良いのです。

その時にどう言うのか、ましてや苦し紛れに
全てを伝えてしまい、あるいは「できることは
ない」などと安易に口に出してしまう、という
ことではなくて、「この方のこれからを見据えた
時に何が最良なのか」「これからどうやって
支えてゆくのか」という「線の告知」で
臨んでもらいたいと切に願います。

告知は点ではなく、線です。

そして告知は「終わり」ではなく、遥かな道のりの
スタートです。きちんとした告知は
その道のりの道しるべであり、杖でもあります。


それでは皆さん、また。
失礼します。